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七梨乃手記

……あなたは手記に食い込んだ男の指を一本一本引き剥がすと、頼りない灯りの下それを開いた。@N4yuta

ソーシャルネットワークの文法

再開

2016年は主に仕事が忙しすぎてろくに何も作れず書けず、こっちの方のモチベーションがなくなったのかなーと自分でも考えるぐらいだったんだけど、書かなきゃ書かないで燻るものがあるし、幸いにも周囲に現在進行形で何かしら作り続けている人がいて、そういう人に会うとやはりやる気が出るもので、アドバイスに従って毎週一回ぐらいのペースでブログエントリをこさえるようにしたいと思って再開した次第。

といってもこれだ!というほどのオピニオンがあるわけでもなく、性格的にも一つのことにこだわりつくすようなタイプではないので、自分が楽しんでやれることを目標にやれればなと。

 

ソーシャルネットワークの文法

翻訳コーディネータ(プロジェクトマネージャー)という仕事をしていると、複数の案件が並行して進む中の進捗を自分で管理して、課題があれば洗い出して改善案を考えて随時仕込んでいくということをするわけだが、我が社もなんだかんだ最先端を謳っても所詮は中小企業なりのガバナンスであり、どうやって効率化していくかっていう結構大事な部分が各自の創意工夫に委ねられているんだけど、今のところ自分はふせんアプリに自分の決めた書式で進捗を直接書き込んでいくっていう原始的な管理をベースになんとかこなしているわけです。

Excelのスケジュール表とか他の選択肢は実際あるし、もうちょいシステマティックにやりたいと思って考えたこともあるけど、結局案件の進行サイクルが早いとささっとメモしてガンガン回した方がよいなとなってしまう。しかしログがトラックしにくいし、レビューの段階でうまくいかないというのが欠点で、そういう意味では某オタキングの記録式ダイエットみたいに、ただただログの検索性にこだわり続けるっていうのは重要なんだろうなと思う今日この頃。

しかし本題はそこではなくて、要はこのブログの書き方とか、仕事におけるものの書き方というのも全部自己流で、現在のスタイルに落ち着くまでにいろいろあったわけです。

 

インターネット日記文化について、テキストサイト時代→mixiの隆盛→twitterの台頭→pixiv/インスタ/Tumblr等サービスの細分化・クロスメディア化という歴史があったよねーというのは皆さんご存知の通りだと思うんですが、個人的にはそのさらに一つ前の「インターネット以前の日記文化」も無視できないところで、「書き物を出す場所としてのインターネット」という枠で考えると、同人誌やペーパーにおけるフリートークスペースという名の著者の雑多なコラムスペースのスタイルとかマインドが確実に今日のインターネット日記文化の背骨になっておるだろ?ということは言っておきたいわけです。

自分の場合、見出しに大体■▼●をつけてアレするとPCでも紙でも見やすいっていうのは同人誌で学んで、長文を書くときのモチベーションというかリズムの取り方は椎名林檎の『丸の内サディスティック』等のエッセイ型の歌詞だったり、『正しい街』の歌い方やブレスを参考にしている。これがヒップホップとかがバックグラウンドだったならもっと切れ目が鋭いんじゃないかなと思ったりする。

 

インターネット日記を書く人というのは大体二種類いて、ひとつは日記を一つの完結したコンテンツと認識している人で、もうひとつは日常のコミュニケーションの発火材(話のタネ)になるような写真や店名等のタグ情報、もしくはバズワードを詰める人で、両者のコミュニケーションのあり方とかコンテンツの扱い方って根本的に違うから、どっちが良い悪いもないんだけど、結局残っていくコンテンツって基本的に個性の強い属人的なスタンドアロンのもので、究極的には個人そのものと言ってもいいようなものだと思うんですよ。顔のないコンテンツはあまり長く生きられない。

何もない白紙にどうやってアテをつけて何を書くのか、どう見出しを書き出して展開していくのか、それは絶壁の登攀のようにかなり個人のパワーが必要なところで、それぞれにスタイルを確立することが求められるところでもある。ニュートラルに、プレーンに書き終えられるということは無いし、むしろその逆の絶対的な偏りが面白さとか価値のポイントになる。

ところが、テキストサイトの飽和に伴って人が「読者」というステータスを手にするようになると、いろいろなものが数値化されて、自分を含む前者の人々が一定の読者数の保証という保険に釣られてmixiとかに囲い込まれていってしまい、結果的にその保証がある種のローンのような形になってその人の個性をガンガン削っていくというようなことがあり、現在はtwitterバズワードが出たらとりあえず祭りにはチョイ乗りしておきつつもその他の場所では自分の好きなことを粛々とやっていくような人がやっぱり一番面白いということになっている。

難しいのは、かつて2chの祭りスレでやっていたことと、自前のサイトとかでやっていたことを今はひとつの場所でやらなきゃいけないということで、それをうまいこと両立している人って本当にすごいんだけど、基本的にできないし、やろうとしない方がいいんだろうね。結局大半の人にとってtwitterって、RSSにコメントがつけられる程度のいっちょかみツールでしかないし、それがマイクロブログって形態の限界なんじゃないかと。

 

感動も感情も反射神経も日々の肉体の老化と共に流れ去っていくものである中、後から見た時に見応えのあるものを作っておくというのは結構大事なことで、人間が異常に肥大化した脳みそのせいで無意味に意味を求めたり知性をもてあます動物である以上、いろいろな手段で白紙に挑む時間というのを持たないと、無駄に他人を攻撃して過ごすようになる。大抵他人に噛みついたり何かしら問題起こしているのって、自分から若さが失われていったりだとか、あるいは今死んだら自分の痕跡は何が残るのかとか、そういうことに対する焦りとか恐怖が根本原因になっていることがほとんどなので。

 

別に何ヒットもしなくても、自分の中に残る表現を考えておくことはセルフメンテナンスの観点からしても大事なことなんだと思う。

でも、根本的にユーザにとってキモチイイものでなければならないという制約上、これから出てくるソーシャルネットワークサービスも基本的にはツールでしかなく、人を満足させる場所にはならないだろう。その裏で、様々なアプローチに合わせた白紙を提供するサービスが細々と生き続けていくはず。

そこに何を書くか、どう書くかは、それぞれが各自でアップデートしていかんとね。