七梨乃手記

……あなたは手記に食い込んだ男の指を一本一本引き剥がすと、頼りない灯りの下それを開いた。@N4yuta

カユミソ

食中りは現代人の飽食と過重労働に押しつぶされた生活に絶対的なNOを言い渡す大自然と生命のうんちゃらかんちゃら

食中りのお陰で少し痩せたので、スーツが入りやすくなり転職活動が非常に捗っている。食中りは数日ぐらい粥と味噌汁を二食も摂らない生活をしてもさして体力に差はないことに気づかせてくれた。人間に必要なものはもとよりそれほど多くない。疲れたら休めばいい。人生で本当に大切なことはもう二度とコンビニのハムを買ってはいけない、買っても開封したら即使い切るということだ。食中りはたくさんの学びを与えてくれた。ありがとう食中り。

まあ、先週エントリがなかったのは単純に機を逸したからで食中りは関係ないのだが。

 

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緊急避難は絶対的なもの(命に係わるから)という事実と、長期継続的なキャリア以外は認められないこのあまりにも窮屈な国の実情との軋轢の中で、「逃げること」がそのまま「役に立つ」と保証することは誰にもできないから、こういう苦しみに満ちた議論が何度も湧いて出てくる。統一された宗教観もないし、力のあるコミュニティサークルもないし、金もないから、誰も誰の心を受け止められない。だから責任の擦り付け合いになる。

本当はみんな「責任」なんて人ひとりが引き受けられるようなもんじゃないってことに気づいているだろうにな。

責任をベースに話をするんだったら、それを自分が属する社会や組織等のシステムが適切にそれを分散できているかどうかを考えなければならない。人間にはとにかく責任を分散させるためのシステムが必要で、個人にそれを負わせれば醜い争いしか起きない。

・・・そもそもその責任が必要なのであれば。

 

物心ついてから若いころまでは、自分のすべてが嫌いだった。

親への怨み、環境への恨み、それらを束ねて総括して、物理的存在としての自分への恨みになり、つまり自分の肉体が嫌いだった。精神が肉体にこびりついているものであることを知りながらも、肉体の事を常に敵視して生きてきた。

巷に溢れる「生きてさえいれば~」「とにかく生きることが~」神話にもほとほと嫌気がさしていた。人間に必要なのは平均寿命を平均的キャリアでクリアすることではなく、死ぬまでに一片でも自分のものだと断言できるような決断や意思や勇気を持てることであって、だから個人の事情を欠片も鑑みることなく自殺という選択肢を忌避する風潮にもずっと疑問を持っていた。どうせ誰も彼に正しい自由を与えられないのなら、彼が誤った自由を手にするためにしたことを、誰が責めることができるだろうか??

 人が生命に対して持てる倫理など、実態はその程度のものだと思っている。

ともあれ、自分の場合は這いつくばるように生きてきて自身の物理的な限界を思い知るようになってから、むしろ「これだけの体力があればこれぐらいのことができる」といった具合に肉体とのビジネスライクな関わり方ができるようになった。それは相対的で何かに依存した考え方ではなく、限りはあるが絶対的で自立した考え方だ。ポジティブですらある。

 

その上で考えるべきは、”For every man shall bear his own burden(人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。 - ガラテヤの信徒への手紙6:5)” の「重荷」が何であるか。今背負っている「責任」が果たしてそれであるかということだ。

それは自分の知恵と心身が支えるのに十分なものであるか、それは自分のものになるための恩恵をもたらすものか、否か。

それが自分のものでないのなら、投げ捨てるべきじゃないだろか。

成長も、信頼も、市場価値も、自分が生きたいもののために生きていなければ空辣で他人任せで、自分の首を絞める真綿でしかない。最終的にどこで何をしていたいかという目標を最後まで手放さずに、可能な範囲で必要なことをし続けることが命への義務だと思う。

どうせどれほど大切にしたところで勝手に失われる命に対して立てる義理なんて、そんなものだ。 

 

頭で考えてわからん時に体の言うことを聞くのは結構大事なんだ。カニミソはいらない。カユミソでいい。まだ腹が痛い。神は死んだ。ありがとう、食中り。さようなら、食中り。

 

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