2015/03/20 私は失うことを得た
空虚という実感。
童貞女子とかいう新しいクソステータスが出てきて、cakesでこの連載が更新されるたびに開いては「クソだな……」と毒づく日々が続いているわけだが、弱者利権というのは確かに、ある。
“なれるかも知れないわたし”を質に入れることで借りられるエネルギーというのはあり、それでも正気を経営していくことはできる。
問題は、“なれるかも知れないわたし”もまた一人の人間であり、なれるかも知れないがために、勝手に戻ってくる可能性があるということだ。
その場合には、それまで借りたエネルギーを返済する必要に迫られる。
完済もできず、夜逃げもできなければ、“意義”を差し押さえられる。
空虚であることもそのまま掲げ続ければコンテンツになって利益を上げるこの時代、己のリアルを抱えることは、見方によっては負債を抱えるということにもなり得る。
もっとも、自分は結局希望を求めているのか絶望を求めているのかと聞かれて後者と答えられる人間は口を開く前にもう死んでいる。それでも態々リアルを細かく投げ捨ててみるものがいるのは、単純に酔いたくなっただけのことだ。勝てもしないギャンブルに金を使って安酒を呷り暴れているのと変わらない。
生憎、未来に胸を高鳴らせることができるような、“予兆”を楽しむことのできる人間を見逃したままでいられるほど、人の目は腐っていない。いつか必ず見出されるだろう。ヘンリー・ダーガーですら逃げ切れなかったのだから。
問題は、借り物のエネルギーで取り寄せた“意義”を、自力で買い戻す生産能力を持っているか、ということだ。
殉教者と伝道者では生き方が違う。
メディアに求められるのは自意識の排除だが、エキスパートに求められるのはむしろ、自分とその対象がいかにして「関係している」か、ということだ。
リアルなやりとりは、あくまでも語りかけることによって進行する。
そうしてわたしたちは、得ることを得て、失うことを得る。
利益も損失も、邂逅も別離も、すべてが“獲得したもの”であって、それを認知して初めて、わたしたちは何かを生産することを始められる。
手を合わせるのではなく、握りに行くことができれば、いつか夢たちの一人と友達になることもできるだろう。
そして「手の温もりはちゃんと知っていた」のなら、それがやはり一番のことなのだ。
それは自分を貶めない。
貶めるようなことにならないために、わたしたちは無駄に未来を予感する感覚を持っているのだと思う。
そんなわけで、なんでも自分ごとと思って考えてみる練習が自分にも必要だよなあ、と考える今日この頃。