七梨乃手記

……あなたは手記に食い込んだ男の指を一本一本引き剥がすと、頼りない灯りの下それを開いた。@N4yuta

2015/01/15 言葉断捨離意識序破急

真面目な話、やっと心臓動いてる意味解ってきた気がしてる。

ネットの音楽オタクが選んだ2014年の日本のアルバム ベスト50→1 - 音楽だいすきクラブ

 

@grassrainbowのMy Best ALBUM 2014(邦楽編) - Togetterまとめ

 

蓮沼執太フィル「ZERO CONCERTO」 - YouTube

 

 いや本当ありがとうございます。ご紹介ありがとうございます。

 音楽という世界、本当に掘れば掘るほど理想に近づいていけるので希望しか湧かないなあ。

 もう最近本当に、空き時間に読書か音楽を聴いたり歌ったりすることしかできなくなってきたのだ。

 実際、音楽ほど(自分の好みにはまれば)隙のない遊びもない。一秒だって退屈する暇が無いわけだからなあ。

 僅か数分の間に凝縮されたあまりにも多くの言語と感覚。末広がりに放出されていく音を一筋に収斂させていくのは一体なんだろう、ハーモニーという言葉も、意思という言葉もその現象の両極でしかない。共同幻想と斬って捨てるにはあまりにも濃く、確かな質感を持った息吹。

 音楽も結局は生活音や喧噪の一部に過ぎないのかも知れない。好きな街、嫌いな街があるように、勝手にそこに立ってわが物にしたような気になっているだけなのかも知れない。表現、表現、表現。安直に用いられる『祈り』なんて言葉の軽さには耐えられず、率先して自らを投げうち、明らかに個の範囲では理解を超える何かに、それでも個をもってコミットしていき、その感覚が何なのかを確かめずにはいられないわれら。

 

 さんざん色々な場所で踊って歌って、ステップを踏んでたら漠然と「あー、心臓が止まってたら体でビート刻めないな」というしょうもないことに気付いて、こんないい音山ほど出てくるならまだセッション用にこのくそったれな肉体も取っといてやってもいいな、と最近ちゃんと思い始めた。何年音楽聴いているんだよ。今更だよ。まあそれが大人になるということであればまあそれもよし。

 

 っでね、もう好きな人はご存知なんだけど、自分の中でとてもとても評価の高い音楽は本当に言語化できないというか、あっ太刀打ちできないです……とばかりに言葉が毛穴から飛び出して行ってしまい、最近はなかなか、それはもうなかなか言葉足らずな日々だ。

 これはもうあれなのか、デトックス的な何かなのか。これだけ情報を過剰に摂取する日々を送っていても、人生には「言葉にする必要のない言葉」があるということに気付く。意外と忘れるんだ、これが。忌み嫌うものは、実際のところ、自分との相性が悪いだけか、すでにそれ自体が死につつあるものかのどちらかで、結局自分の人生とは関わらずに外れていくものだったんだ。

 

 だからというわけではないけど、頭の中に渦巻く思考もだいぶ整理が始まった気がしていて、これは捗る捗るといった具合。そして勉強が特に捗っている。なるほど、言葉を捨てて生きているようで、本当に必要なものだけ静かに内に積み重ねるための強制断捨離マシーン。表現よ。そして空っぽになった頭には入れたかったものを入れよう。壺に大きな石を先に入れずに小石や砂を先に入れると取り返しがつかないという。でも別に取れるのでまた入れ直そう。

 ロジカルとそうでない領域の行き来はまだ続く。行き来を繰り返して橋を架け続けて、輪郭をつかむ。そう、ウィトゲンシュタインがいつかつかめるだろうといったそれを。天蓋のへりを。それまでに死ぬかもしれないが、行く価値はあるのだ。ぬう。ぬう。

2015/01/14 Elegy for a dead world

もはや創作なのか消費なのか。


インディーズゲームの小部屋:Room#361「Elegy For A Dead World」 - 4Gamer.net

 

 まさかの背景に沿って直接ストーリーを書き込む「ゲーム」というわけで、そもそも全篇好き勝手に書けるのはそれはもうただの創作なんじゃないかと思いつつ、物語を書くのがゲームになるっていうんならやってみようじゃねえかということでやってみた。

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 まあー感触としてはゲームではないですよね。これね。

 だってまずインタラクティブ性がないもんね。書き込んだことによって何かがフィードバックされるわけじゃないし。ワークショップ経由で他のプレイヤーに読んでもらえるよーとか、それはもう単純に小説投稿サイトなんじゃないかという話なんですけどね。

 アイデアは好きだけどね。ってか個人的にはどんどん新しいステージを用意してほしいけどね。これが例えば不特定多数のプレイヤーによって作られるリレー型小説!みたいな体であったらゲームと呼びうると思うけど。MO形式で、4人とかで執筆をリレーして、みたいな。(まあ書き上げたものがどこで評価を受けるかっていう報酬の問題があるんだけど)

 

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 ただ、小説を書くにあたってのアシストツールとしては結構よくできていて、同じステージでも戯曲モードとか英文法練習モードとか、さまざまなテーマが用意されているので、これから何かを書いてみたい人とか、書き方を練習したい人にとってはありがたいと思う。英語だけどね。1・2時間ぐらいでさくさくっと書けるようなボリュームだし。

 とりあえずオーソドックスな「Byron星の時代」という設定で一篇書き上げたので掲載。基本的に最初の一行だけがゲームによるリードで、そこも改変して書き進めてる。色々文法が間違っているかもしれないが、もしわかる人は教えてくれるとありがたい。

 

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Arh'du - the melted civilization

Arh'du (アル・ドゥ):溶けた文明』

 

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 五億年前、この星は『アル・ドゥ』と呼ばれる種族の故郷だった。

 アル・ドゥはこの星系で最も文明の進んだ種族だった。彼らは成功者であり、侵略者であり、そして絶対的な支配者だった。だが今となっては、彼らは数々の奇妙ながらくたを遺し、遠い神話と成り果てている。

 

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 彼らは支配下の星を『Gim'a』――今では『the Jade(翡翠)』と呼ぶ――という金属製の素材で覆いつくし、そこから数々のテクノロジーや兵器、建築物、そして種そのものを作り出した。

 

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 他の惑星は彼らの手に落ち、次々に翡翠の実験場へと造り替えられた。彼らの侵攻に反抗できるものは誰一人いなかった。なぜって?それは星そのものが相手だったから。

 アル・ドゥが幾千もの『翡翠を星に降らせ、『翡翠』がその土壌に触れると、『翡翠』はその星に刻まれた記憶を抽出し、その星に住む種族や社会を――アル・ドゥの高い知識と技能を上書きしたうえで――丸ごと複製する。誰も複製された者が誰か見分けることはできない。というよりも、誰もそんなことを考えもしない。彼らは『翡翠』という名の“恵みの雨”によって我々は進歩したのだ、と喜ぶばかりだった。

 

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 千年もの間、アル・ドゥの“帝国”は栄華を誇った。

 『翡翠』は銀河中の知識と歴史を記録し、アル・ドゥはそれを星々を統治するのに用いた。それぞれの星には独自の種族と社会があったけれど、彼らの進化――最も根源的な「意志」そのもの――はアル・ドゥの手の中にあった。

 

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 高層建築はアル・ドゥ支配下の文明に共通した特徴だ。彼らは『翡翠』の生成工場を建て、それをオベリスクという、地上で最も高い塔から噴霧させる。オベリスクはそれぞれの社会における宗教的なモニュメント(教会のようなものだ)も兼ねている。

 宗教のバリエーションというのは当然ながら膨大にあった。だがそのすべての存在意義は、究極的にはたった一つの教条に集約された。

 ――「繁栄を讃えよ」。まあ、誰にも反対なんてされないわよね。もちろんそれが続いている間は、だけど。

 

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 アル・ドゥによる統治に不可欠なのがこの『石笛』だった。

 『翡翠』の砂がこの『石笛』の穴の中を通り抜けるときに、音が鳴る。とても大きくて耳障りだけど、どこか音楽のように聴こえなくもない。ちょうど誰かが巨大でボロボロのパイプオルガンで聖歌を奏でようとしているような感じ。その音で、アル・ドゥは星の状態を把握していた。

 

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 子供たちは歌い、大人たちは詩を書いた。

 戦争、弾圧、虐殺……数多くの破滅が訪れても、諦めるものはいなかった。それどころか立ち止まろうとするものすらいなかった。進化し続けることこそが唯一にして絶対の答えだということを、彼らはあらかじめ知っていたんだ。

 そして彼らはそれを疑わなかった。だから誰も悲しまなかった。彼らにとって、目に入るものはすべて、次なる進歩への光だった。

 彼らは常に幸せだったのよ。

 

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 その一方で、町の目立たない場所や個室の一角には、時折彼らの宗教的シンボルを冒涜するグロテスクな絵が描かれることがあった。

 アル・ドゥに支配されたものたちは決してアル・ドゥに立ち向かおうとはしなかったし、『翡翠』の力を疑うこともなかった。もちろん互いに殺し合うこともあったけど、オベリスクを攻撃することはついぞなかった。無意識のうちに自分たちが『翡翠』の子だとわかっていたのね。

 でも……だとしたら、何故こんな絵が残っているの……?

 

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 しかし、余りにも繁栄の限りを尽くしたもののご多分に漏れず、数千年後に全ての終わりが来た。

 

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 文明は堕ちた。大地の底が抜けたのよ。

 ある時、突然あらゆる『翡翠』が粉状に溶けだした。

 地面が、建物が、そして人々が……『翡翠』を内包するあらゆるものが溶け、風に吹かれて消えた。

 “本物の”大地でできたものは地上に残ったけれど、

 生命は……どこにも残らなかった。

 

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 大地は新たな生命を生み出すのを止めてしまった。

 星には、ただ風に吹かれる『翡翠』と植物だけが、生命の存在意義を忘れたかのようにそこにあるだけだった。

 それはとても静かで、平和な世界だった。

 

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 そして何千年もの時が経って、原始的な建物がこの星に建てられた。

 誰のかって?そうね……

 

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 “彼ら”は学んだことの全てを活かして、決して間違った進化をしないよう試みた。

 “彼ら”は常に風に吹く『翡翠』の音を聴き、“祖先たち”の失敗を思い出した。

 “彼ら”は絶対にそうした失敗を繰り返さなかった。

 

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 無限と喪われた生命たちは、アル・ドゥ――私たちの文明の再起のために役立てられた。

 

 私たちには、

 失敗も、

 悲劇も、

 後悔もない。

 

 ためらう気持ちも、ない。

 

 でも……それでも、彼らの死を悼まずにいられないのは、何故?

2015/01/13 「くだらない」という言葉すら相対的でして

論理的に保証されたラグジュアリー。


星野 源 - くだらないの中に 【MUSIC VIDEO & 特典DVD予告編】 - YouTube

 年始にドコドコッと、いわゆるハイソサエティな人々との接点があり、色々とお話ししているが、圧倒的過ぎる文化資本の圧力に頭をくらくらさせられている。いやもう本当に外部記憶装置のストックが無尽蔵で、話せば話すほどに自分は論理的な人間などではなく、感性で生きている人間なんじゃないかと思わされる。

 いや実際にそうなんだろうけど……。

 しかし、特に芸術や感性についての話をしていたのもあって、んんー?物事を考えるのにそんなに出典や論理的強度の保証って必要なのー?とどこかで思ってしまうのも事実で(古典マジ大事、それは大いにわかっているし、今年は基礎を押さえなければならないと本当に思っているけれど)、割と抱えてる悩み自体はあんまり変わらないところから察するに、文化的美食家はやはり「快」のバリエーションが豊富で、それを認識するだけの豊かなボキャブラリーもあれど、違いは結局「食べる時に人より細かく噛み砕いて食べられる」ぐらいなのかなぁと考えたりもした。

 でも観える世界の解像度が高ければ、それだけ選択肢も増えるし、行動のインパクトも乗数的に上がっていくのだから、やっぱり文化資本を積み上げることは人生の向上を考えた時に欠かすことのできないものなんだけどね。

  それでも、想像力のジャンプ抜きに、整合性を確かめるようにそろりそろりと人の心を語ることなどできまいよ。そんな風に意地を出してしまう。……はい、その意地を使って勉強しましょうね……(インプットしたものをすぐ結晶化できる技術とか)

 そしてそんな人々にも通じる星野源。何故だ。彼の掬う上澄みの純度の高さを思い知る。ヒズ業イズディープ。

 

 自由は人の手に余るエネルギーだから


仏紙、今週号でも預言者風刺画 過激派刺激も、厳戒続く - 47NEWS(よんななニュース)

 フランスは、言うまでもなく哲学と思想の国だ。

 パリの魅力を置いても心が常に引き寄せられる場所なだけに、どうにも気になって今回のテロ事件について様々な記事を読んだ。

 

一角獣ニ乗リ、月ノ揺籠ニ眠ル。2 エマニュエル・トッドさんの読売新聞のインタビュー

 ・だがフランスの社会構造を理性的に直視すべきで、なぜ北アフリカからの移民の2世、3世の多くが社会に絶望しているのかを考えるべきだ。彼らが過激化している。

 ・背景は長期に及ぶ経済の低迷で、移民の子供たちに職がないことであり、日常的に差別もされていること。そして、フランスの「文化人」ですらが、移民の文化を「悪」とする空気まである。

 

パリに住む日本人が感じた、新聞社襲撃テロのこと|すっぽんぽんパリ|中村綾花|cakes(ケイクス)

今もまだ日本滞在中の私は、この事件でパリは騒然とし、恐怖におののいているのだとばかり想像していました。でも、怯えるどころかデモに参加して意思表明をする人たちが多くいたという事実に驚いたのです。

 

フランスの新聞社 シャルリー・エブド襲撃事件について - alternativeway

 

「ペンにはペンで立ち向かえばいいではないか」
私にそういった人がいる。それが誰にでもできることではなく、
そういう言い方がまた階級や、生粋のフランス人と
そうではない人たちの立場の差を感じさせてしまうのでは
と私は思ってしまうのだけど。あなたにはできるかもしれない。
でも私達はそもそもそんな世界に行くことすらできなかった、
そう思う人たちはいるだろう。けれども誰しもに共通するのは
「だからといって何も殺すことはない」まさに本当にそう思う。

 

日本人の多くはテロっていうものを理解してない

この「主体において拒絶」ってのは、要するに、戦争だ。暴力だ。あいてはルールの違う共同体(これは国籍や住居とは無関係)の住民であり、こっちの法に従う義理はないんだから、「あなたは法を犯したから悪かったですよね?」っていうのは通用しないんだ。善悪とは全く関係ない。「俺たちに損害を与えたからお前らを暴力で滅ぼす」っていうだけのことなんだ。

 

シャルリー・エブド事件後の行進で、私が見た子どもたちの姿 | ゆりくれ** | タレント・レズビアンライフサポーター牧村朝子(まきむぅ)オフィシャルサイト

フランスでは人種や出自に関係なく、フランス国籍を持っている者はみな平等にフランス人とされます。またフランス国籍を持たない、たとえば私のような在仏日本人も、フランス国内に住めば「フランス社会の一員」とされ、フランスの法律をもって差別や暴力から守られます。

ですが中には「いつまでも移民扱いされている」「“ちゃんとしたフランス人”として扱われていない」と感じる人もいます。そして、そういう親の体験を聞かされながら育った、フランス国外にルーツを持つ子どもたちもまた、強い被差別意識を持つ傾向にあります。

特にシャルリー・エブド事件後、そういった子どもたちは、新聞やテレビや学校で教わる内容全てを「マジョリティが自分の都合で言っていることに過ぎない」として切り捨ててしまうのだそうです。では何を信じるのかというと、facebookなんだとか。そうやって耳をふさいでしまう子どもたちに、何をどう話せばいいのか、先生たちは頭を抱えているようです。

 

 暴力による抑圧に対して掲げられる『自由』と、実際に人々に幸福をもたらす機能する『自由』とは、大きく異なるものなのだと思う。

 前者は単に「かくある抑圧からの解放」を示す反動に過ぎなく、それは容易に「もう一つの暴力」になり得る、ただの盛り上がるエネルギーだが、後者、つまり本来的な意味での民主主義とは、個人に自己批判性を求める社会のあり方だ。それは個人に「ものを想う」という痛みを背負う覚悟を求める社会であり、それによって容易に生じる衝突に対し、不断の交渉と対話を求める社会だ。

 シャルリー亡き後のシャルリー・エブドの風刺は、そこに込められた信条を勘案しても、手段としては紛れもない悪手だと思う。ムハンマドを出して泣かせるというのは、テロの責任を全イスラム世界に投げつけるもので、市民の熱狂をテロリズムを生み出した・もしくは誘引した構造に対する疑問へ向けさせるものではなく、既存の差別問題の根をさらに深め、差別者と被差別者の溝を深める表現であり、風刺とは視点を俯瞰させることで受け手に自ら批評することを求める表現であるから、表現の文法的にも誤りであるように感じる。

 とはいえ、風刺という表現は表現者自身の当事者性があっては成立しない(主体が含まれないということが重要)ものでもあり、結局この場合シャルリー・エブドがすべきだった“正しい”風刺表現とはなんだったのかということを考え出すのが難しいのも事実だ。実体無き批評者は、当事者になった途端に主体の不在を公に曝け出し、結局は特定のサイドへの攻撃以外の目的を持たないことを明らかにしてしまう。スポットライトの下に映し出されるものが何も無いと知れた時、交渉の可能性は消え去り、言葉無き暴力の応酬が始まるのは道理だ。

 結局のところ、シャルリー・エブドは「風刺とは何か?」そして「暴力は必要だったのか?」と、当事者として立ち、疑問を投げかけるべきだったのではないだろうか。

 

 今回の行動によって、対話の窓が閉じられてしまったように思えてならない。誇り高きフランス人の国民性は好きだけど、それが悪い意味で保守的な方向に転がってしまわないよう、この表現に対するカウンターが適切に行われることを期待して止まない。 

2014/12/31 音速スタッフロール

言葉の届かない場所にばかりいた。

 2014年。実際毎週何かをしていた。

 もういい歳にはなっちまいながらも、「人生」が手元に来てまだ2・3年しか経っていないので、やっと自分の使いこなし方がわかってきていろいろやってみた、というのが今年だったと思う。いろいろやってみた、途端にあらゆることが上向き始めた面白い年だった。今年きてるわー、を様々な局面で思った。

 別に就職したところで何かが変わったわけではあまりなかった。収入が増えたのは小さいことではないけど、二十代になったら時間がないのは何をしてても同じだった。満員電車に肩を押し込むように、圧倒的質量で押し寄せ流れていく現在に自分をいかにねじこんでいくかという作業に変わりはなかったし、ねじこんでいけるだけの自分が手元にストックできてきていた時点で、十分にポジティブであることを受け入れていける条件は整っていた。

 そんな中でもずっと、これまで通り「過ぎ去ってしまうもの」「顧みられないもの」をいかに拾って形にするかは考え続けた。過去のプレイバックではなく、未来を迎え入れることが、本当は何を記述すべきなのかを見極めるに当たって重要だと気付いた。

 あるようでないものが好きだ。

 もっさりと存在していて、そのくせ手を入れるといとも簡単に崩れ、なくなってしまうようなもの。それは急いで消費してしまってもいいし、逆にじっくりとその味わいを引き出そうと試みてもいい。いずれにしても、リアルに関係した途端に実体を喪って、印象だけを残してさっと過去へと流れていってしまう。対応が正しかったか否かを問う間もない。一切れのケーキのような、そういうものが好きだ。

 そういうものを作るには、言葉だけでは全く足りなくて、もっと人間の多言語性――身体で発信できるメッセージ、ハイコンテクスト文化の中で行われる意味のマニューバ、感覚と自我の関係、定義の意義、それらについての理解が不可欠だということが分かったし、それによって着地すべき理想もどんどんと姿を変えていった。

 まだそこへ着地することはできていないし、その過程を表すだけの力量もない。生きることを保留したくなる時もまだまだあるし、焦りと迷いとはいい加減馴れ合い始めてきたところだ。

 人の人生を十年ごとに区切るとして、個別の自分が命をリレーしていく。十代生き残って、前半乗り越えて、今楽させてもらって、仕込んだものをまた次に渡していく。今ここに存在していること、何かができていなくても、それについて考え続けること、改善すること、着手すること。ミリ単位で、生活の範囲で修正をかけて、大鉈を振るう筋力がなくても、確実に触れ合った人を暖めていくこと。

 焦れはする。「まだ元を取っていない」という叫び。それも長所と受け入れられる余裕を少しずつ充填している。どのような形式で、どのようなタイミングでそのエネルギーを適切に流し込んでいけるか、まだ模索は続いていて、悲しいけれども、人よりも長く踏ん張り続けて鍛えられた脚で、その気持ちも踏みしめて進みたい。

 

 リアルな出来事でいうと、一番大きかったのはHESOMOGEこと川口忠彦さんの個展でギャラリートークをさせて頂いたことだろう。


第3回個展 終了いたしました : H E S O M O G E .com

 二十代になってから始めた趣味も、しっかり自分事に紐付けて咀嚼を続けたときに、きちんとそれを好きな人に届く表現が生まれるんだなということを川口さんとのご縁に教えて頂いたと思う。

 あのヴィーナス&ブレイブスの監督さんというだけであらゆる意味で自分にとっては神のような存在だった方と、親しくお付き合いさせて頂いて、美というものについて語り合い、検討することができた。そこからさらに素晴らしい出会いも広がって、過去も未来も深まり、味わいが出てきた。

 重要なのは、そこにいるすべての人が勝負をかけている人だということで、異なる分野に立ちながらも、ある種の戦友として集ったということなのだ。また別々の戦場に戻っていくための酒場のような場。人はなんのためにあるのか、なんてそんな問いもすっ飛ばして、人はどの方向に行くべきかを見据えた人。言葉は停滞する。思考は入り組んでもたつく。それでもわれわれはわれわれである以前に進化し続ける種。理性はそれを観測し続けている。本能と付き合い、どこへどこまで行くのか。時代は確かに変わっており、それゆえの罠も、未完成のものも多い。だが強い意志でそれらを切り分けていければ、何もかも自分で決めることができるだろう。

 溺れたがりにも守られたがりにもさよならをして、未だ移り気ではありながらも、それゆえの軽いフットワークを武器に追う。やっぱり物語を生成する人なんだよな、自分。なので来年もこのペースとリズムで、頑張っていきます。

 皆様、今年はお世話になりました。

 来年もよろしくお願いいたします。

 

遊んですぐ寝た。

 そんな昨日のCDJは、遅めに出て早めに帰った。

 もうほとんど貼るだけ。


坂本真綾「Be mine!」Music Video - YouTube

 なんでロックフェスにいるんだ!?と思いつつ、良かったです実際。真綾さん、想像以上に動きまくる人だった。美しい声は心と体の姿勢から、というのが観ていてよくわかる。

 


きのこ帝国 - 東京 (MV) - YouTube

 本命。MCで言っていた通りかなり緊張気味だったようだけど、押し寄せる斬り付けるような音圧の中に一筋、布に刃を通すように透き通った佐藤さんの歌声が抜けていく。こんな時代にこんな「東京」を歌うバンドがいる、その事実に何かと感傷的になってしまうなあ。

 


TM NETWORK / Get Wild 2014(TM NETWORK 30th ...

 やってくれました小室さん。ソロ、エレクトロ、マエストロってな具合でフロアを上げてから爆発→GET WILD。アレンジもロックフェスらしいギターサウンドを織り交ぜてきて、たまらない。まだ何もかも素直だった頃の音楽がまた鳴った。

 


大森靖子「きゅるきゅる」Music Clip [HD] - YouTube

 ねごとが始まる前に駆け込みて観た大森靖子

 割と真っ当なバンドサウンドを呪詛のグラインダーにかける危ないライブ。全方位にカウンター仕掛けると壊れるしかないというパンクの極北みたいな、なんか、なんだ、とりあえず大丈夫なんだろうか……?ダメだな……でもいてくれないと困る……ロックフェスだもの……

 


ねごと ループ (Live) - YouTube

 この「女子」との絶妙な距離感を観てくれー!

 そしてグルーヴ感を味わってくれー。

 日本のロックが次の段階に来たことを感じさせてくれる、不思議なまでに調和の取れたアクトだった。

 

2014/12/29 あたしとロックを―CDJ day2

COUNTDOWN JAPAN14/15 初参戦。

 今年は音楽に身を捧げると決めた年だった。

 夏にフジロックに初参戦してから、今年どうしてももう一発フェスを仕込みたくて、CDJ後ろ三日券を買ってしまったのだった。

 かねてからロックフェスデビューしたいと言っていた子を連れて海浜幕張へ。いやー、流石に定番年越しイベント、空調も誘導もフードスペースの確保も完璧で、この上なく快適なフェスだ。きちんと時間を選べば音楽を楽しみながら旨い飯も食べられて座って休むこともできるので、安心して遊べるいいイベント。ひたすら感心してしまった。

 

 本日観たのは以下。


ゲスの極み乙女。 - 猟奇的なキスを私にして - YouTube

 初っ端からゲス。ナイスブッキング。ナイス入場規制。

 いやいや、ヴォーカルも演奏も実際手堅い手堅い、超ソリッド。当たるべくして当たったというか、当たって良かったと言えるバンドなんじゃないだろうか。絶妙な毒とサブカル感の入り口からストレートにポップへ抜けていくこの展開、今を象徴していると思うし、一番手がはまり役。昼飯を食っていったのに踊りすぎて終わった時には腹が鳴り始めていた。

 


ZAZEN BOYS - 泥沼 @ ボロフェスタ2013 - YouTube

 安定の諸行無常。今回の性的衝動はおしゃれクラブサウンドへ抜けて行ったので個人的に親しみやすかったwああスーツ。ああおやじロック。横にずれたサングラス。エスプレッソだよこれは。踊らされるのだよ。

 


[Alexandros]- Waitress, Waitress! (MV) - YouTube

 連れの推しで観に行った元[Champagne]こと[Alexandros]。

 普段はゴリゴリしたギターばかり聴いているので、煌びやかな音のシャワーみたいなサウンドは聴いていて癒される。イケメンサウンド、いい。Champagneの頃はそこそこ聴いていたけど、Alexandrosになってからはもっとキャッチーというか、王道な感じになった印象があって割と興味を惹かれる。今後も注視していきたいバンド。がっつり気合入れてライブやってくれるしね。

 


GRAPEVINE - 望みの彼方 (名盤ライブ『IN A LIFETIME』) - YouTube

 はい。渋くなりましたね本当に。一つ一つの言葉と音を丁寧に丁寧に刻んで、全力でなぞっていく音作り。移籍後の新アルバム期待。昔の曲も、今の曲も別々にすごく良いので、もっともっと聴かれて欲しい。ロックが人を救うとしたら、最も直接的にそれを実現しているのがこのバンドだと思う。本当にありがとう。

 


クリープハイプ - オレンジ - YouTube

 世界観。世界観!!!!!!!!

 貫録の入場規制。まあ青田刈りですよね。うんうん。

 ただライブはどうだろ……自分は空腹に負けた。しかし演奏は聞き惚れる。メロディーラインがね!もうね!

 


赤い公園 - 今更 - YouTube

 今日の個人的MVP。

 もうアルバム一枚聴いた時点できとるでこのバンド感がすごいよという状態だったが、あまりにもパフォーマンスが美しすぎる。力まず、構えず、ストレートに楽しさ、音楽の美しさを追求した姿勢。それができるロックバンドは実際とても少ない。ガールズバンドならなおさら難しいかもしれない。でも、ストレートでいい。ストレートであればいい。ロックを信頼すればいい。それが心底わかっている人間の動きだった。

 正直あまりにも美しかったので落ち込んだ(あまりにも良すぎるパフォーマンスを観るとキャパシティ超えた時点で心のブレーカーが落ちる)。

 えーと、来年ライブ行きます。

 

 


エレファントカシマシ「今宵の月のように」 - YouTube

 落ちて砕けた心をエイヤッと回収してくれたエレカシ。いつもすみません。『お前らなんて素直なんだ、なんて素敵なんだ、嬉しいぜエビバディ!!』『一緒に生きていくだろ!!』『金以外に大事なもんがあるかバカヤロー』などの正拳突きを食らって立ち直る。ありがとうございます。この48歳の全肯定はパワーがありすぎる。力押しすぎる。押し切られて元気になってしまう。

 それにしても、チャートが死んで久しい現代に、自分がまだまだ幼いころに好きだったバンドが今日もまた好きな歌を歌って、何千人という人間に手を振らせるって、本当にうれしいものだ。もっともっと若い世代にも知られていけ、広まっていけ。

 

 以上、フルコースの贅沢。

 雑食の自分でも、やはり故郷はロックだったのだと感じさせるには十分なラインナップ。ロックというやつはなんで、他ではケチのついてしまうストレートな肯定ってやつをあんなにも綺麗にやり抜けてしまうのだろう。スポットライトに照らされたアーティストと無数の揺れる手以上に美しい人間の姿など、あるだろうか。

 満面の笑顔で舞う歌手に屋根を押し上げる無数の手を観ていると、決して届かない美しい光が神輿のようにたくさんの人の手によってどこか遠くへ行ってしまうようで、寂しかったり愛しかったり、猥雑な感情が心をかき乱す。だから必死に手を伸ばしたくなる。

 過ぎ去っていく美を惜しんでいるばかりでなく、いつか自分もその光を手にするために、余所から見れば陳腐かも知れないストレートな愛の詩を、自分にコードとして刻み付けて歩いて行こう。

 

 連れの子も世界が変わったかのような充足っぷりを放出していて、嬉しくなってしまった。どんどん広がっていけ。音楽という多言語コミュニケーションは、ただそれがリアルに共有されることによって、より理解され、育まれていくのだから。

 いい一日だった。本当に、ロックはいいものだ。

2014/12/23 ~ずにはいられない

部屋を何で嵩張らせるか問題。

 川口さんKindleまじでいいよー、という話をして頂いて、早川文庫の電子書籍が半額セールを始めたということもあり、Kindle Paperwhiteを買ってしまった。

 

Kindle Paperwhite

Kindle Paperwhite

 

  値段的にギフト需要も高いようで、クリスマス向けに2000円引きクーポンも適用できたので、割といいタイミング。本格的に電子書籍デビューを果たすことになった。

 何しろ家の本棚が限界である。

 うちの部屋を埋め尽くす二大元凶、本と服。いずれももはや棚に収まっていない。収まれない。しかしよくよく考えてみれば、服はまだしも本はこうまで場所を取っておく必要があるものばかりでもない。自炊できるような環境があるならばそうしてしまうべきものもあるし、そもそも手元になくてもいいようなものもある。ここらへんの切り分けは、自分が毎月後先を考えずに本を増やしてしまう習性のために割と急務であって、物として持っておく必要のないと思われる書籍はガンガン電子書籍で仕入れていくべきだったのだ。

 そもそも、自分は公共の場でそうそう本を取り出さない。携帯も相当こっそり見る。外で本を読むといえば、カフェ等腰を落ち着けられてある程度のパーソナルスペースを確保できるところに限られる。自分が知っていて、認めた人以外には、自分がどんな本を好きかはもとより、何を考えているかすら明らかにしたくないからだ。ネットで好きなことを書くのはいいのかという話もあるが、リアルな存在と内面が紐付いているかどうかというのが結構大事である。

 そういう意味でも、iPhoneでも読めるKindle電子書籍は便利だ。落ち着いた場所では端末、それ以外では携帯でこっそり読み続けられる。

 自分はこれに加えて、人に貸し出したい本や、物として保持しておきたいもの、あくまで紙で接したい本を紙の本で所持する。

 この紙の本と電子書籍の振り分けが目下の悩み。

 特に小説。詩集なんかは紙の本で持つべきだろうが、割とこの先はそうでもないかもしれない。小説はもう本当に読了後に紙の本で持つべきだったと後悔するパターンが出てきそうだ。まあ仕方がない。読書の絶対量は多ければ多いほどいい。書店はそれぞれに癖があるし、通販は受け取るタイミングを計らなければならない。読める活字はなるべく早く読むに限る。

 

読み解けるものはすべて過去であるということ


自分で読みなおしても、どうかしてるマンガだなと思う。|【完全】さよならプンプン【ネタバレ】浅野いにおインタビュー|浅野いにお|cakes(ケイクス)

 

浅野 自分がマンガを描いてる動機のひとつは、自分が抱えてる疑問だとか不安だとかを解消したいんですよ。『プンプン』を描き始めた時の状況と今の状況とを比べると、今はすごくラクなんです。
 あの頃のあらゆるものに苛立ってる感じとか、いろんなものに対する不安はかなりなくなったので、描くことで解消したのかなと思います。

 例えば息を呑む感動。のしかかる苦悶。「現在」は常に言い表すことができない。

 肉体は常に理性の一歩先を行き、そのために、あらゆる人間は常に裸でモーメントに直面する。理性は意味を後付けするために機能し、その現実から精神を保護するために様々なロジックを構築する。時にはそのロジック自体が障害となることもあるが、基本的には絶えず重なりゆく「現在」との衝突のダメ―ジを補うために、われわれの理性は拡充されていく。

 そのためのツール(あるいは言語)は人によって異なる。好きなものを選べばいいが、最終的にはそれによってダメージの内容が記述されなければならない。人は障害のログを生成しなければそれに対処できない。そこに社会的、経済的価値があるかどうかはあまり関係がない。

 人は常にそのログを生成するための適切な言語を探している。「現在」との接し方は、自然とそうした言語の実験が主となる。その進捗のいかんによって、人生の質は大きく変わってくる。「~せずにはいられない専門的な人々」など存在しない。悩まない人など存在しない。人はよりよい記述のために努力し、生きていく。特別な、という意味のポエジーなど存在しない。記述せよ。誤っていたとしても、ロジックの更新を続けよ。それに勝る解決など存在しない。

 人は、少なくともこの時代においては、記述することで生存する。

 それが今日まで生き残ってみての実感でもある。

【映画】C・ノーラン『インターステラー』感想(微ネタバレ)

私たちはもはや、私たちのあまりにも豊かな感性について、機械のギブスなしに語ることはできない。


Interstellar Movie - Official Trailer 3 - YouTube

 

 クリストファー・ノーランという人は、流行によって風化しない偉業を成し遂げる人のほとんどがそうであるように、極端なロマンチストである一方で、その極端さと同じ強度でシビアに現実を押さえる。だがそれにも関わらず彼がリアリストでない理由は、その現実的問題の一つ一つを逃さず積み上げた上で、なおロマンチシズムの現実的達成を目指すというところにあり、その仕事をもって、人類になぜ文化というものが必要なのかを証明し続けている。

 つまり、われわれは語りえないものについていかに語るべきか、ということを示すという仕事をしていて、それがいかにしてわれわれの「実務」を繋いでいるのか、ということを表したのが、本作『インターステラー』である。

 

 本作は、「家族」「愛情」をキーワードに、宇宙を舞台としたSF映画の体裁を取る。だがそもそも良き家族とは何か?われわれの中にある何が良き家族を生み出し、それを継続させるのか?そういった問いに明確に答えられるものはまだない。

 この映画では、主人公の家で必ず決まった本が落ちる「幽霊」のいる部屋を皮切りに、超自然的存在に対して、至極真っ当な宇宙探査という手段(本作で用いられた科学にまつわる表現がいかに正しい引用を経たかについては、次の記事を参照されたい――映画「インターステラー」をみる人に届けたい5つの豆知識 )でもってアプローチしていく。

 

“生命の営み”が持つ一定の限界

 改めて語るまでもなく、宇宙空間そのものは人間にとって最も生存からかけ離れた環境であり、その空間の中から地球と同等の生存可能な惑星を見つけ出す科学力は、未だ人類に充分備わっていない。限られたリソースと手段とともに宇宙空間に存在するということは、地球上で持っているあらゆるものを自分から削ぎ落とすことに他ならない。そこには一切の「溜め」がないゆえに、自分の持つもっとも信頼できる知識と経験、そして根本となる信念、思想の強度が試される。そして人間という種が持つ基本的な仕様――われわれはコミュニケーションによって得られる「気力」か、充分に確保された「体力」、あるいはその両方を持たずに、死の恐怖=孤独に耐えることはできないということが明示される。

 

 作中においてある人物は、この死の恐怖こそが人類の想像力の源泉であり、すべての行動の動機であると示唆する。これ自体は素晴らしい指摘のように思えるが、それはノーラン自身によって否定される。『ダークナイト』『インセプション』などで描かれたどん詰まりのループが、この作品においても再び、優れた手管で繰り返し再現される。それは一切の予断を許さず、死の恐怖に対する生存本能というものが単なる衝動であることを表し、それはちょっとした高慢によって躓き、誤った方向へと突撃していくものであると語られる。

 そして大変困ったことに、この失敗を積み重ねることによって、われわれはわれわれ自身の判断能力に疑いを募らせていく。それは解消することのできない疑念であり、われわれは仕方なく、哲学や物語の闇の向こう側へそれを投棄する。つまり自らのいい加減さを無視する以外にそれに対する疑問から逃れる術は無いのだ。

 

 だが、そうして逃げ出すことができない環境にあったとしたら?そこでノーランが持ち出したのが、「ロボット(AIを搭載した機械)」という、人間の倫理観を超えた知的存在である。

 彼らは、少なくともノーランの描いた世界の中においては、作戦の根幹を担うだけの計算能力と、クルーの会話の相手を務めるだけの知能を持ちながら、あくまでも“投棄”可能な道具の一つとして人間社会に受け入れられている。このことがループに行き当たりどん詰まったクルーを幾度となく受け止める緩衝剤となり、次へと繋ぐオルタナティヴな手段(アクションヒーロー的に言えば「プランB」)となって、不測の事態に対して理論のストックを切らした人類の歩みを前に進ませていく。

 そこには「ヒューマンドラマ」が前提として備える人間の能力に対する無批判な信頼など一切なく、人間にとっての愛の価値は人間の存在を肯定するためにあるという考えは、実に丁寧に否定されていく。

 

 そうして一通りの「引き算」が終わったあとで、物語は初めてクルーに選択肢を提示する。そしてその場でメッセージを発したのは、トム・フーパーレ・ミゼラブル』で愛を歌いながらも、貧しさのために娼婦に身をやつして死んでいく母フォンテーヌ役を務めたアン・ハサウェイだった。

 

アン・ハサウェイの起用で時空を超え差し伸べられる『レ・ミゼラブル』への救い

 アン・ハサウェイ演じるブランド博士は、愛は観測し数値化することが可能な概念であり、われわれはそれを追うべきだと説く。われわれは、われわれの持つ知性と科学技術によって、愛を解析できる。それこそがわれわれをこの先に導く鍵なのだと説く。そしてそれは、まさしく文字通りに次元を超えることによって論理的に肯定される。

 敢えて『レ・ミゼラブル』への紐付けがされたなどとは思わないが、愛を歌うフォンテーヌを死なせ、物語に回収することによってその言葉の価値を守ろうとした『レ・ミゼラブル』に対して、『インターステラー』は時間と、それに付随する価値観を乗り越えることで、「物語の中」でもフォンテーヌを生かすことに成功している。人はたとえ作り話の中にあっても、人間にとって最も大切なものを語るために犠牲になる必要などないという意志を感じずにはいられないシーンだし、それはSFという論理性を突き詰めるジャンルならではの説得力をもってしか成し得ないことだったと思う。

 なぜならば、彼女を救ったのは(宣伝に反して)家族ではなく、彼らがコミュニケートするために利用した技術であり、ロジックだったからだ。

 

人工知能との対話は人類の進歩の延長線上に当然に存在している

  『インターステラー』は全篇を通してAIへの信頼を前提に成り立っている物語だ。それはつまり、人類の平均的な想像力が宇宙をより身近なものとしてイメージするに足るものにまで成長してきたことを表し、それと同時に生存本能という抑えがたい衝動が、われわれを一定の境界に縛り付けているという避けようがない課題を浮き彫りにする。本作におけるAIは、感情によってしばしば思考を止めてしまう人間の「バッファ役」として常にそのそばに寄り添い、一瞬たりとも計算の手を止めることなく解法を求め続けることによって、主人公たちに適切なヒントを供給し、人類の希望へと導いている。そして最終的には、AI自身にも定義できない「彼ら」――完全にAIとの融和を果たした人類の発するコードを得る。

 ここには、機械を「使う」という概念は存在しない。むしろある特異点を超えた時点で、本作の世界では機械は「使うもの」という概念が機械は「対話するもの」という概念に変わっているのだ。

 そしてそれは、昨今のAIの進化の道程を振り返れば、きわめて自然な変化であるということがわかる。今やわれわれは、機械との対話を積み重ねることによって、われわれのカバーできない盲点を解析してもらい、論理的にその部分を補強することによって、さまざまな技術的進歩を実現している。ビッグデータはその典型だといえるだろう。今はまだ自分たちの「癖」を読むために機械を利用している段階だが、すでに機械は人間のある一面においてそれを代替する役目を担っている。

 産業革命以降、われわれは記号を扱い、機械によって営みを構築し続けてきた。現代は、いよいよその存在を明確に主張し始めた機械たちに対して、適切な関係を構築するフェイズに差し掛かっている。無暗やたらに人間を全肯定し、「聖人」を作り上げることですべてを人類の枠の中に収める時代は終わった。われわれはわれわれの中の種としての万能感に批判的な目を持って向き合い、機械との距離感について考えなければならない。『インターステラー』に込められた思いはそのようなものだと感じた。そして、そのように説く文化そのものの現代における重要性もまた強く噛み締めた。対話の努力の先にどのようなことが実現可能なのか、その可能性を追うこと、それこそが文化の為せる業であり、人類社会が以後誤ることなくその成熟を進めるための「あたり」として、まさしく必要とされるのがこうした物語なのだ。

 

 たとえ「愛」そのものにわれわれ人類にとっての利用価値がなかったとしても、それを追い、語ることによって得られる恩恵は計り知れない。そのための憑代や道具として、あるいはパートナーとして、機械というものは今日も、われわれのすぐそばに存在している。

 

 この時代にこういう映画を観れて、本当に良かったと思う。