ソーシャルネットワークの文法
再開
2016年は主に仕事が忙しすぎてろくに何も作れず書けず、こっちの方のモチベーションがなくなったのかなーと自分でも考えるぐらいだったんだけど、書かなきゃ書かないで燻るものがあるし、幸いにも周囲に現在進行形で何かしら作り続けている人がいて、そういう人に会うとやはりやる気が出るもので、アドバイスに従って毎週一回ぐらいのペースでブログエントリをこさえるようにしたいと思って再開した次第。
といってもこれだ!というほどのオピニオンがあるわけでもなく、性格的にも一つのことにこだわりつくすようなタイプではないので、自分が楽しんでやれることを目標にやれればなと。
ソーシャルネットワークの文法
翻訳コーディネータ(プロジェクトマネージャー)という仕事をしていると、複数の案件が並行して進む中の進捗を自分で管理して、課題があれば洗い出して改善案を考えて随時仕込んでいくということをするわけだが、我が社もなんだかんだ最先端を謳っても所詮は中小企業なりのガバナンスであり、どうやって効率化していくかっていう結構大事な部分が各自の創意工夫に委ねられているんだけど、今のところ自分はふせんアプリに自分の決めた書式で進捗を直接書き込んでいくっていう原始的な管理をベースになんとかこなしているわけです。
Excelのスケジュール表とか他の選択肢は実際あるし、もうちょいシステマティックにやりたいと思って考えたこともあるけど、結局案件の進行サイクルが早いとささっとメモしてガンガン回した方がよいなとなってしまう。しかしログがトラックしにくいし、レビューの段階でうまくいかないというのが欠点で、そういう意味では某オタキングの記録式ダイエットみたいに、ただただログの検索性にこだわり続けるっていうのは重要なんだろうなと思う今日この頃。
しかし本題はそこではなくて、要はこのブログの書き方とか、仕事におけるものの書き方というのも全部自己流で、現在のスタイルに落ち着くまでにいろいろあったわけです。
インターネット日記文化について、テキストサイト時代→mixiの隆盛→twitterの台頭→pixiv/インスタ/Tumblr等サービスの細分化・クロスメディア化という歴史があったよねーというのは皆さんご存知の通りだと思うんですが、個人的にはそのさらに一つ前の「インターネット以前の日記文化」も無視できないところで、「書き物を出す場所としてのインターネット」という枠で考えると、同人誌やペーパーにおけるフリートークスペースという名の著者の雑多なコラムスペースのスタイルとかマインドが確実に今日のインターネット日記文化の背骨になっておるだろ?ということは言っておきたいわけです。
自分の場合、見出しに大体■▼●をつけてアレするとPCでも紙でも見やすいっていうのは同人誌で学んで、長文を書くときのモチベーションというかリズムの取り方は椎名林檎の『丸の内サディスティック』等のエッセイ型の歌詞だったり、『正しい街』の歌い方やブレスを参考にしている。これがヒップホップとかがバックグラウンドだったならもっと切れ目が鋭いんじゃないかなと思ったりする。
インターネット日記を書く人というのは大体二種類いて、ひとつは日記を一つの完結したコンテンツと認識している人で、もうひとつは日常のコミュニケーションの発火材(話のタネ)になるような写真や店名等のタグ情報、もしくはバズワードを詰める人で、両者のコミュニケーションのあり方とかコンテンツの扱い方って根本的に違うから、どっちが良い悪いもないんだけど、結局残っていくコンテンツって基本的に個性の強い属人的なスタンドアロンのもので、究極的には個人そのものと言ってもいいようなものだと思うんですよ。顔のないコンテンツはあまり長く生きられない。
何もない白紙にどうやってアテをつけて何を書くのか、どう見出しを書き出して展開していくのか、それは絶壁の登攀のようにかなり個人のパワーが必要なところで、それぞれにスタイルを確立することが求められるところでもある。ニュートラルに、プレーンに書き終えられるということは無いし、むしろその逆の絶対的な偏りが面白さとか価値のポイントになる。
ところが、テキストサイトの飽和に伴って人が「読者」というステータスを手にするようになると、いろいろなものが数値化されて、自分を含む前者の人々が一定の読者数の保証という保険に釣られてmixiとかに囲い込まれていってしまい、結果的にその保証がある種のローンのような形になってその人の個性をガンガン削っていくというようなことがあり、現在はtwitterでバズワードが出たらとりあえず祭りにはチョイ乗りしておきつつもその他の場所では自分の好きなことを粛々とやっていくような人がやっぱり一番面白いということになっている。
難しいのは、かつて2chの祭りスレでやっていたことと、自前のサイトとかでやっていたことを今はひとつの場所でやらなきゃいけないということで、それをうまいこと両立している人って本当にすごいんだけど、基本的にできないし、やろうとしない方がいいんだろうね。結局大半の人にとってtwitterって、RSSにコメントがつけられる程度のいっちょかみツールでしかないし、それがマイクロブログって形態の限界なんじゃないかと。
感動も感情も反射神経も日々の肉体の老化と共に流れ去っていくものである中、後から見た時に見応えのあるものを作っておくというのは結構大事なことで、人間が異常に肥大化した脳みそのせいで無意味に意味を求めたり知性をもてあます動物である以上、いろいろな手段で白紙に挑む時間というのを持たないと、無駄に他人を攻撃して過ごすようになる。大抵他人に噛みついたり何かしら問題起こしているのって、自分から若さが失われていったりだとか、あるいは今死んだら自分の痕跡は何が残るのかとか、そういうことに対する焦りとか恐怖が根本原因になっていることがほとんどなので。
別に何ヒットもしなくても、自分の中に残る表現を考えておくことはセルフメンテナンスの観点からしても大事なことなんだと思う。
でも、根本的にユーザにとってキモチイイものでなければならないという制約上、これから出てくるソーシャルネットワークサービスも基本的にはツールでしかなく、人を満足させる場所にはならないだろう。その裏で、様々なアプローチに合わせた白紙を提供するサービスが細々と生き続けていくはず。
そこに何を書くか、どう書くかは、それぞれが各自でアップデートしていかんとね。
村上隆の五百羅漢図展
我々は、大勢であるがゆえに。
美術に限らず、あまねく芸術において基本的に必要なものがある。
それは情報量だ。
だからといって人はただのゴミの山にいちいち心を動かされるわけではなく、
そこにはあるバランスがなくてはならない。
海や山を見たことはあるだろう。
ひとつひとつの要素に意味はなく、ましてや“秩序”なんてどこにもない。
それでも不快に思わないのはなぜか。煩く見えないのはなぜか。
重力のためだ。
常に揺れ動く波間や、擦れる葉がなす、さんざめく境界線は、重力に引かれて目一杯に張り詰めた、世界の際(きわ)だ。
人はそれを見て、そこに立った自分を発見した時、そのはちきれんばかりに詰まった情報の海の中で、ようやく自分という存在が空ろなものではないのだと気づく。自然なるものの圧倒的な質量を前に、納得する。
ああ、これだけふんだんな世界なら、人間くらいひり出してもおかしくない、と。
だから極端な話、芸術や宗教の目的は、
宇宙を解像度高く描き、重力を可視化することであって、
そうすることによって、人を安心させることだといえる。
だがそもそも、人はなぜ安心していないのか?
なぜ生の大地では十分でなく、芸術の需要は絶えないのか?
人は何を恐れているのか?
重力だ。
今にも引き裂かれそうなこの世界は、事実あまりにも簡単にその形を変える。
人間くらい容易く生み出すこの世界は、人間以外のものも生み出し続け、次々と地上へ送り出す。飽和し、変異し、喰い合い、その中には当然、人間を激烈に殺しつくしていくものもある。
人類が「戦争」という言葉を覚えるずっと前から、この溢れんばかりの世界は、殺しあってきたのだ。
人が価値ある情報、納得できる意味、揺らがない真理を求めるのは、
そうしなければ奪られる魂があるからだ。
人は魂のイメージを持たずには生きられない。
それを持ち続けるには、意味を喰らい続ける以外にない。
自分たちは重力を操り、自然に勝利し続けているという感覚が、人間には必要だ。
それは揺らいではいけない。
だからこそ、芸術には自然を越える情報量と、重力を模した究極のバランスが求められるのだ。
それこそが意味の無意味の意味ではないのか。
輪廻は唸りを上げて世は煌めく地獄を目指す。
上の動画の3:40あたりに、金銀の箔押しがされた二枚の作品がある。
村上隆のトレードマークともいえる、無数の髑髏がかすかに浮かび上がる中を、書道家の一筆を思わせるような大胆な筆致の丸が走っている。「これは未完成」とうそぶく村上隆の台詞に乗せられるように、観覧客はこぞってこの作品の前に立ち、記念写真を撮る(なんとほぼ全ての作品が撮影OKだった)。
なるほど、五百羅漢図を雑に引用すれば、後光を放つ羅漢に習って「羅漢ごっこ」ができると勘違いしてもおかしくない。
だがどうだろう、きらびやかな光の中、円に囲まれて立つその背には無数の髑髏がこちらを睨んでいる。完全なる勝利、永遠の安息を謳う金色も空しく、粒揃いに魂の篭った髑髏の山に抱かれて立つ様は、永遠に解脱の望めない、輪廻に囚われた哀れな獣に見えないだろうか?
『100万回生きたねこ』を彷彿とさせる、不死性の地獄は見えないか?
たとえカタコンベと脇に書かれていたとしても?
見えないのだ。
そこが村上隆の作品のクセでもある。
スーパーフラットの時代……国家や宗教によって束ねられていた価値観が解体され、等しく、まばらに、あらゆる情報が漂う時代に芸術は、立てるのか。
東日本大震災によるショックが、五百羅漢図にリアリティを持たせたと彼はいう。現代に更新された新しい説法が必要だと。
実際、彼のやったことは正しく現代の芸術であり、救いの道を見せる、ということをやり切ったと感じた。
それは昨今のポップミュージックのような情報の過積載などとうの昔に通り抜けたといわんばかりの、あまりにも執念深い情報量への拘りに見られる。まるで281兆5000億種類のピースでジェンガをやるかのように、敢えて積み、敢えて重ねて、色の組み合わせに破綻を来たさぬよう、一つ一つの際に細心の注意を払う仕事ぶりは、敢えて自らの命を危険に晒し、その状況下で理性を働かせようとする、修験者たちの持つある種の狂気を追い求める姿勢が見える。
製作に大量の学生らを起用して、システマティカルに百人体制で当たったことも一つ。
過去の作家たちは、個のポテンシャルを深めることで、いわば個人の情報密度、ドラゴンボールの戦闘力のようなものを高めることで、クオリティの上昇を図った。
だが一定のバリューを持たせるという点をクリアしたければ、よく統制された集団を動員すれば当然可能だ。
流行を咀嚼し、多面的に解釈して、最後に膨大な力で一点に凝縮させる。多くの若者に「五百羅漢図に関わった」というキャリアを与え、作品には50メートル離れても1ドットの欠けも起こらないような高い解像度が備わる。重ねて、重ねて、輝かせ、並べて、圧して、鏡面加工まですれば当然そうなる。
まだ仏教が大いに力を持っていた時代の、固い信仰に裏づけされた物語を骨に、磨き上げられた資本のメカニズムで肉付けを行う。水木しげるの妖怪画のどこか滑稽なキャラクター性とアニメーションの過剰演出も筆の払いに込めて、全ての人の想像を越えるスケールと、緻密さで、大から小まであらゆる神仏羅漢神獣を描き分けてみせ、誰もがそばに立って楽しめる、撮って遊べる、それでいてコモディティ化するでもなく、芸術作品としての存在感は揺らがさない。
仏教の説く真理をクリアに現代に伝え、日本のポップアートを一歩先に進める、少なくともリードする、それらをやり抜いた村上隆の仕事を誰が貶められるだろうか?
森美に通うようになって、これまでで間違いなく最高の展示だった。
色の奔流を浴びられたということも、究極の仕事を見ることが できたということも、若い才能の花開くところを感じられたということも、すべてが 望ましく、素晴らしい内容だった。
だからこそ、殖えるしか手のない生命の空回りする虚しさが確かにあって、この極彩色の軍団は、確かにあの波に、宇宙に対峙するために生み出されたのだろうと感じられた。
既成事実で積み上げた砦は、時の波に耐えられるのだろうか。
時代のアイコンとして観ておくにふさわしい内容だったものの、それが残るかどうかは、
現代同様、これからの十年、二十年が決めることになるだろう。
生み出し続けるしかないのだということを、祝いととるか、呪いととるか、賑わいの中でじっと想わざるを得ず、羅漢たちに挟まれて立ち尽くしていた。
2016/01/10 コンサート『ヴィーナス&エコーズ』
喪に服すとは、時を知るということ。
去る1月9日に三鷹市公会堂 光のホールにて開催された有志企画のコンサート『Venus & Echoes』に行ってきた。
年明け早々に記事に書いたとおり、『ヴィーナス&ブレイブス』というRPGは犠牲を受け入れる物語であり、死を抱き締める物語であり、愛を守り抜く物語だった。
コアなファンたちが様々な形で語り継いできた流れが、本作品の元監督にして、現在はアーティストとして活躍されている川口忠彦さん(HESOMOGE)の現在の活動をきっかけに収斂し、その熱量が今回のイベントの結実に繋がり、かつては打ち込みだった音楽が、プロの手によって――コンサートマスターの河合晃太さんもまた、この作品に魅了された一人だ――一音一音魂を込めて奏でられた。
少し不思議なのは、このゲームは基本的にランダムに生成された無名のキャラクタたちがプレイヤーにとってのメインのリソースなので、プレイヤー間で大筋のストーリーは共有されていても、「100年間」の細部、その流れ方についてはプレイヤーごとにまったくその内容が違うので、演奏を聴く人々の頭の中にはそれぞれ異なる「過去」がフラッシュバックされていたということ。それぞれがそれぞれの並行世界を持っていて、同じファンでも共有している要素自体は、実はそう多くない。アリア・ブラッドを始めとした“英雄”たちを語ることはできるが、それと同じぐらいの思い入れがそれぞれのもとに訪れた無名のキャラクタたちに対してもあるので、心のうちに抱えた愛に、一つとして同じものはない。
しかし、『ヴィーナス』に関しては今も昔も変わらないことがある。
私たちは時の流れに涙を流すのだ。
いつか終わってしまう楽しい時間に。無駄に終わった熱意に。省みられない無念に。あまりにも長く続く苦しみに。実体のないぬくもりに。圧倒的な忘却の波がもたらしたものに。
時は止まるということを知らない。「その時」までに望みが果たされたかどうかとはまったく関係なく、どんどんと次へ進んでいく。「現在」という点から離れれば離れるほどに質量の大きな「忘却の波」に晒されることになり、人は生き続けなければならないためにどこかでその水圧に屈しなければならず、そうして手放されたことは闇の濁流の中で徹底的に漂白されて、いつかなにものでもない、本当のゼロになるだろう。希望はない。絶望もない。それはあることにとっては救いであり、あることにとっては処刑である。
私たちが私たち自身の命以外のものにできることは、「それがそこにあったことを語ること」ただそれだけで、究極的にいえば、時の流れの中で生きる私たちがすることは「惜しむこと」以外にはない。それを知るからこそ私たちは涙を流し、これ以上奪われることのないように、新たなものをつくり、伝え、残していこうとするのだ。
当たり前だけど、プロの演奏家たちによるオーケストラで再現された音楽は、当時打ち込みで聴いたそれとは解像度がまるで違う。“当事者”が関わっていることも相まって、長い間守られてきた世界観が確かに脈動するのを感じられるほどだったし、十数年という長い月日のなかで失われたものに対する想い以上に、今ここに集っている人たちに対する興味の方が強く湧き上がる。
これを成した人、これを目の当たりにした人は、次に何を創るのか?
この企画を立ち上げた有志の面々のモチベーションの一つには、川口さんがこれまでに開催してきた個展があっただろう。『ヴィーナス』やその他の様々な活動の中で見出したものを個人として突き詰める道を進む「アーティスト・川口忠彦」の精神。青い鳥タロットを始めとした彼の最近の仕事を振り返って改めて思うに、「理想の受肉」ということに頑ななまでに心を砕く古きよき職人的な姿勢と、傑出した美は魂を救うのだという、ある種の絶対的な信仰心のようなものが、フォロワーを集め、モチベートしていくエネルギーを生んでいる。美しき理想をただ愛でるのではなく、それを肉体の動作に還元し、運命に作用させるというプロセスが、鑑賞者の眠っていた望みを呼び起こすのだ。
はっきり言って、そこまでメジャーにならなかったゲームタイトルのためにプロのコンサート企画を組むのは並大抵の難度ではない。それは一つのプロジェクトであって、関わる人間一人ひとりにプロとしての実務遂行能力が求められる。各人が価値を生むためにやれることを十二分にやらなければ形を保てないということだ。それがこのように無事完了できたこと、それ自体が、この作品が確かに愛されたのだということの証明だし、この作品に流れる精神が求めるものだったと思う。
記録とは、時の流れを自分のものにすることだ。
それらが積み重なって一つの歴史に束ねられた時、それは「過去」を変え、「現在」を変え、「未来」を塗り替える。多くの可能性が解き放たれ、人生に希望を予感させる。時の流れは膨大だ。だからこそそれを利用できれば、変わるはずがないと思っていたことを変えることができ、起こることを考えもしなかったことを起こすことができる。
だからこそ、語り継ぐことには意味があり、愛することには意味がある。
だから今ここに記録しよう。涙あり笑いありの『ヴィーナス』の世界がしっかりと再現された素晴らしい演奏会があったということを、それは「過去」を冠した会だったにも関わらず、集った人の顔は皆前を向いていたということを。
これに関わり、これを成した人すべての、今後の活躍に大きく期待して。
2016/01/01 敢えて再生しないということ 『ヴィーナス&エコーズ』 ;updated 16:10
『ヴィーナス&ブレイブス』の世界を描く、初の単独演奏会に寄せて
*16:10 川口忠彦さんから最新のキービジュアルをいただいたため掲載、一部間違った記載があったので修正
PS2初期の異色なRPG『セブン ~モールモースの騎兵隊~』といえば思いだす人もいるだろうか。
『ヴィーナス&ブレイブス』は、その『セブン』の世界観を継いで2003年に発売したSRPGだ。100年間の滅びの預言を覆すべく、不死者が女神の命のもと、定命の者たちを集めた騎士団とともに世界中を駆けずり回る。
変化しないのはヒーローとヒロインだけ、あとのもののすべては、友も、時代も、世界の構成すらも移ろってしまう。年を取った団員は子孫を残し、騎士団を去っていくのだし、疲弊した時代は都市の様相をすら変えていってしまうのだ。
あらかじめストーリーの中に神(=プレイヤー)の視点を織り込んだ入れ子構造を備え、寓話らしい美しいグラフィックの中に、読者は常にファンタジーに「置いていかれてしまう」という哀しみや寂寥感、ひいては老いて時代に取り残されていく生の苦しみを抱えた物語りが強く人の心を惹きつけた名作だった。
売上的には必ずしもブロックバスターとはいかなかったようだが、それでも全国多くの人が長く覚える作品となり、十代の頃にプレイして今大人になった自分のような人々が集い、今回のような有志のコンサートが開かれるまでとなった。
こうした展開は監督であった川口忠彦さんですら想像できなかった現象だった。
このゲームがもともと多くの死を孕む構造であったために、再生の報せともとれるこの動きは尚更強く“元”V&Bプレイヤーの郷愁を誘ったのか、チケットは即日瞬間的に売り切れとなった。誰もが自分の物語りのなかで死んでいった者たちを思い出し、「墓参り」をしたくなったのだろう。
再生といえば、ここ最近はFF旧作などをはじめとしたスマートフォン向けの再移植・リメイク等が相次いでいる。つい最近もFF9のPC/スマホ向け移植が発表されたばかりだ。まさしく20代・30代~の、昔ほど時間は取れないけれどスマホでちょっとしたスキマ時間を埋めたい人々にとっては、当時やれなかったゲームに改めて触れる機会の到来でもあるし、既にプレイしたものであっても、古びたアルバムをめくるように懐かしみ楽しむこともできる。それは確かに良い流れだ。PS~PS2の、まだ国産ゲームに力があり、バリエーションに富んでいた頃のストーリーは、何度でも改めて語られるべきものがいくつもある。
その流れに乗って、『ヴィーナス』も高らかに再生を叫んでも良いし、実際その素晴らしいシンプルでソリッドなシステムは今でも十分プレイに耐える。
だが、『V&E』で掲げられたテーマはそうではなかった。
それはあくまでも戦いの“残響”だった。
演奏会のポスターに描かれた都市の残骸の風景は、そこが復興しなかったことを意味する。
だがそこには人が訪れ、御参りをし、鳥が飛び、全景は豊かな大地の息吹の中に抱かれている。苔生してはいるが、忘れ去られたわけではない。しかし、物語りは確かに終わり、人々は死んだ。死と輪廻を主題に扱うゲームだったからこそ、安易に「再生」するわけにはいかない。そこに『ヴィーナス』の哲学があり、命を語ることに対する礼節がある。
命あるものがいつか必ず死ぬために、英雄譚には黄金の不死が求められる。
彼らは何度でも蘇り、何度でも戦い、何度でも勝つだろう。
無限のループのなかで無限の勝利を収め、そのために飽きられて、新たな英雄譚に取って代わられるだろう。
そして忘却の海の中で、英雄たちは死ぬこともできず、ただただその状態を「保留」されたまま、無限の再生を続けることになる。
不死者が生に飽きて死を求めるという陳腐な展開を誰もが知っているように、黄金の英雄は、当事者にとっては地獄であることを、実は、誰もが知っている。
だから、実際のところ、誰も英雄を身近に置きたがらない。誰も英雄を、当事者としては「愛し」たくない。ただ「崇拝」したがるだけだ。
だが、物語を愛するのなら――あるいは人や命を愛するのなら――その終わりを看取ること、最期まで観測することを避けることはできない。
私たちは自分が愛するものとともに老い、その死を看取って、心に小さな墓石を持ち、それを宝石のように後生大事に抱えて生きていかねばならず、その様は傍目から見れば間抜けかもしれないが、実はそれらが移ろい行く時代の流れに流されない数少ないよりしろでもあるのだ。
だから、『ヴィーナス』は蘇らない。
ただその音色を知っている人が時折ひそかに奏でて、過ぎ去っていった命や物語に対して、鎮魂と感謝を捧げるのみ。
愛され、死を看取られるものは、虚実を問わず幸福な存在といえるだろう。
それはいつかまったく違う形で、新しいアイデアと共に生まれ変わるだろう。
『ヴィーナス&ブレイブス』がこの期に及んで流行して欲しいなどとは思わない。
しかしその物語りのなかに込められた満身の愛と目の前の生命への祈りは、人の道として何がしかの形で引き継がれなければならないと思う。
あなたは英雄の愛し方を知っているか?
2015/12/31 緊急避難の終わり
夢を叶えるのと夢を見るのは同時にできないようで
今年は一番良い年でもあったし、一番拙い年でもあった。
年始から七転八倒しつつ取り組んできた転職活動が実を結び、理想としていた行き先の一つ、翻訳の世界に潜り込めたのはかなり大きい。そこから先、国境に縛られない人生へ進むに当たって、考えられる中で一番ベストな位置に入り込めたと思う。ここでこれからする努力がもたらす成果にはそれなり以上に期待が持てる。
そもそもほとんど独学&洋ゲーで身につけたスキルが職に繋がるということ自体が痛快だし、腰を据えてかかる気になる仕事をようやく得たことにも安心感がある。
これで長い緊急避難が完全に終わったのだと思う。
やむにやまれずで続けてきた間に合わせの仕事ともおさらばし、使い道もないままただ持ってきたものはそれなりに捨てたし、ヤケクソになる理由がなくなったのだ。今の自分には「基盤」があるし、そこから何をどうマネージしていくかという考え方に移っている。未だ安定からは程遠いが、少なくとも公私共にこなすべきことは日単位で観えているし、毎日調整していく余裕もある。
もっとも、長い転職活動にリソースの大半を割かれた後、新しい環境に合わせているうちにもう一年が終わってしまったという感じがあって、長期的には良くても、短期的にはほとんど中身のあることができなかったという気がする。
創作方面では、今年『僕に間に合え』を刊行できたのはとても大きかった。これはde-part.jpの白倉さんの進行があったればこそだったし、ほとんど息も絶え絶えにひねり出した(結構いいものができたと思う)。
それでも、美術やファンタジーや創作に対して今年は本当にリソースを割けなかったし、今後そうする気になるのかどうかも実際怪しい。それが一番拙いところだ。
もちろん今森美でやっている村上隆を逃す手はないし、来年からはどんどんまた観ていく予定だけど、そこからさらに奥に進む余裕はあるのか?
これまでは「緊急避難」で、魂の安息だけ考えていればよかった。今は「生活」があるから、こっちを形にするために踏ん張らなければならない。
「幸せな生活」がいかに脆くて得がたいものかを自分はよく知っているから。
ただ、それと思索を深めること、道を探求することは別のことで、そこをおざなりにしても人生は成り立たない。
どのような形で理想を実現すればいいのか?
自由を手に入れる手がかりは得た。でもその先の理想がないと、意味はない。
突き抜けるほど何かに執着できない自分、そうせざるを得なかった人生にも、悔しさが滲む。
雌伏のときは早く終えて、外に飛び出したい。
来年がそんな一年になりますように。
TOKYO ART BOOK FAIRに出展します・1~出展作品について
『僕に間に合え』、9/19~21、C-33「de- part.jp」ブースにて販売。
京都造形大学・
de-part.jpの白倉良晃さんが企画・
あらすじ
『0時42分に、間に合うこと
間に合わせること』
多忙を極め、終電を追うばかりの生活を送っていた「僕」。
ある夜、一瞬の隙に気を取られている間に終電を逃してしまい、
寝静まった夜の街に独り、置き去りにされてしまう。
余りにも頼りない導きに従って当て所なく夜を彷徨う「僕」の頭の中に、
かつての「君」の声が去来する。
『人にとっての最高速度は、
その人の歩く速さだから。
その先はもう掴めないから』
交錯する時、記憶、想像、感情。
身体は一つしかない。でもその中にあるものまで一つとは限らない。
食べても食べても満たされないぼそぼそのスポンジケーキみたいな昼の言葉たちは全部暗闇に萎んでしまって、看板も標識も埋まって、それは僕らもそうで、何かを表すだけの言葉は意味がないから、僕は君の、君は僕の言うことをつないだ。それがすべての最小単位で、僕らはいつでもそこから始めて、何でも手に入れたし、どこにでも行けた。
「僕」は思い出したのか。
忘れたのか。
「君」はいなくなったのか。
やってくるのか。
溢れだす時間は零れ落ちる時間となって、どんどんと喪われていく。
間に合わせだらけの世界で、「僕」は間に合うのか。
答えは時刻表の裏側に書かれた時間だけが知っている。
特殊製本「いいかげん折り」で作られた掌編小説
『僕に間に合え』は、極めて珍しい特殊製本で有名な製本工場、(有)篠原紙工 様の製本モデル「いいかげん折り」を使用しており、薄口のブルーの紙に両面二色で、黒や白を一切使わず、街灯に照らされた闇夜や白み始めた早朝の空気を表現しています。
言葉の虚しくなる時間に滲み出る想像の世界が、ページをめくるごとにだんだんと(文字通りに!)広がっていき、一人歩きしていた言葉は何かに出逢い、織り上がっていきます。
ページごとに少しずつズレがあり、書かれた内容が“漏れ出す”この製本モデルは、主にリーフレットなどに使われていたようで、小説本としてのいいかげん折りのサンプルは、『デザインのひきだし』14号の付録ぐらいでしょうか。『僕に間に合え』は背綴じをしていないので、見た目は折りたたんだ一枚の紙なのですが、しかし、本です。
嬉しいことに、本作は篠原紙工様でも「いいかげん折り」のサンプルとしてご利用いただけるとのことです!光栄です!
この本で実現したかったこと。
それは紙の本の「道具」としての気持ち良さ……手繰ること、紐解くことの面白さをきちんと形にするということと、この言葉がどこまでも細切れに拡散していく現代で、その欠片を取り戻すことの意味を表すということです。
言葉は本来、常にイメージと寄り添っています。
言葉は、他人に自分のイメージを影絵のように投影するための“型”に過ぎないのです。
それを忘れた時、人の想像力は急速に渦を巻いて社会に飲み込まれてしまう。
それでも、隙を見つけては滲み出る。
それが想像力の強さなのだと思います。
『僕に間に合え』は一部500円で販売します。
七梨乃那由多は会場には行けませんが、何卒よろしくお願いいたします!
2015/08/17 あんびるはるか展『おそれ』について
それは食べることができます。
□個展最終日□
雨 自分でもさすがだなぁと思うほど降りました☂
きょうはどんな日になるかなぁ
たくさんの方にお会いできるとうれしいです*
槐多さんの営業時間は17-22時まで あんびるもずっとおります♪ pic.twitter.com/h4CyY7Ep8N
— あんびるはるか (@chame_bill) 2015, 8月 17
最近展示の感想はツイートで済むことが多いし、取り立ててブログに書くようなことも無いので書かなかったが、今日の展示の感想はなんとなく家に持ち帰らないとうまくいかない気がした。
現在はhjarta(イエルタ)名義で音楽活動をしつつ、絵画の発表もされているあんびるはるかさん。昨年HESOMOGEさんの個展でライブを拝見したのをきっかけに、展示にも伺い、その縁で今回の展示の招待を頂いたので、明大前のブックカフェ槐多にお邪魔してきた。
昨日あんびる不在のため切らしてしまっていたポストカード、今日はたくさん持っていきます♪
昨日きて下さって ほしかったのに無かった!!! という方がもしいらっしゃいましたら、ご配送致しますのでお声がけください(∩´(エ)`∩) pic.twitter.com/UOt1czFyqw
— あんびるはるか (@chame_bill) 2015, 8月 17
あんびるさんの絵は猛烈に歪んでいて、歪んでいるにも関わらず、何かすとんと腹落ちするような安心感がある。あってはいけないものがあり得てしまっている現実を認めて立っているような佇まいは、何かを想像するということは、本当は新しい幻想を作り出すとかいうことではなく、ただかろうじてこの肉体の中に収まっている矛盾を、そのまま表出しているにすぎないと語りかけるかのようだ。
それは言ってみれば偉大なことではないし、特別なことでもない。言葉を持った時点で理性と本能とに引き裂かれる定めの動物である人間が、かくも理性“的”に振る舞えていること自体が、まぁ奇跡的なことなのだ。自らを縛り上げ、歪まないことには、人が“佇む”ことなどできない。
ご本人曰く、描き始めたきっかけは嫌悪感だったという 。
それでもそうしてできた絵は何故か自分が好きなものになり、結果的に展示は自分の好きなものに囲まれるような状態になったそうな。
自分の心を引きずり回す嫌なことが溶けていき、人になんと言われても構わないと言えるほどの確信を持って愛せる絵だけが遺った。それを聞いて、やはりマリオ バルガス=リョサを想わずにはいられない。即ち、人が何かを作ることや、表現することで得られるものは、そのために自分自身を喪うということなのだ。
それは、例えば猛毒を持つフグを調理しておいしく食べてしまうように、自らの中に生まれた「おそれ」を取り込んで、ものにしてしまうということ。食べられるところ、食べたいところをより分けて、食べたいだけ食べる。それは歪なことだろうか?それはわがままなことだろうか?
我々はただそこにいるだけで欠け続ける。何かを絶えず取り込まないことには生きていけない。
愛すべき醜悪「だった」もの。
あんびるはるかさんの絵の中には、曇天を根こそぎ持っていく台風のような、荒々しくも清々しい“渦”がうねり、観る人の心のもやをも巻き込んで、ソフトクリームのようにしてしまう。
それは食べることができます。
おいしく。