七梨乃手記

……あなたは手記に食い込んだ男の指を一本一本引き剥がすと、頼りない灯りの下それを開いた。@N4yuta

2016/01/01 敢えて再生しないということ 『ヴィーナス&エコーズ』 ;updated 16:10

ヴィーナス&ブレイブス』の世界を描く、初の単独演奏会に寄せて

*16:10 川口忠彦さんから最新のキービジュアルをいただいたため掲載、一部間違った記載があったので修正

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venus-and-echoes.net

 

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 PS2初期の異色なRPGセブン ~モールモースの騎兵隊~』といえば思いだす人もいるだろうか。

 『ヴィーナス&ブレイブス』は、その『セブン』の世界観を継いで2003年に発売したSRPGだ。100年間の滅びの預言を覆すべく、不死者が女神の命のもと、定命の者たちを集めた騎士団とともに世界中を駆けずり回る。

 変化しないのはヒーローとヒロインだけ、あとのもののすべては、友も、時代も、世界の構成すらも移ろってしまう。年を取った団員は子孫を残し、騎士団を去っていくのだし、疲弊した時代は都市の様相をすら変えていってしまうのだ。

 あらかじめストーリーの中に神(=プレイヤー)の視点を織り込んだ入れ子構造を備え、寓話らしい美しいグラフィックの中に、読者は常にファンタジーに「置いていかれてしまう」という哀しみや寂寥感、ひいては老いて時代に取り残されていく生の苦しみを抱えた物語りが強く人の心を惹きつけた名作だった。

 売上的には必ずしもブロックバスターとはいかなかったようだが、それでも全国多くの人が長く覚える作品となり、十代の頃にプレイして今大人になった自分のような人々が集い、今回のような有志のコンサートが開かれるまでとなった。

 こうした展開は監督であった川口忠彦さんですら想像できなかった現象だった。

 このゲームがもともと多くの死を孕む構造であったために、再生の報せともとれるこの動きは尚更強く“元”V&Bプレイヤーの郷愁を誘ったのか、チケットは即日瞬間的に売り切れとなった。誰もが自分の物語りのなかで死んでいった者たちを思い出し、「墓参り」をしたくなったのだろう。

 

 再生といえば、ここ最近はFF旧作などをはじめとしたスマートフォン向けの再移植・リメイク等が相次いでいる。つい最近もFF9のPC/スマホ向け移植が発表されたばかりだ。まさしく20代・30代~の、昔ほど時間は取れないけれどスマホでちょっとしたスキマ時間を埋めたい人々にとっては、当時やれなかったゲームに改めて触れる機会の到来でもあるし、既にプレイしたものであっても、古びたアルバムをめくるように懐かしみ楽しむこともできる。それは確かに良い流れだ。PS~PS2の、まだ国産ゲームに力があり、バリエーションに富んでいた頃のストーリーは、何度でも改めて語られるべきものがいくつもある。

 その流れに乗って、『ヴィーナス』も高らかに再生を叫んでも良いし、実際その素晴らしいシンプルでソリッドなシステムは今でも十分プレイに耐える。

 

 だが、『V&E』で掲げられたテーマはそうではなかった。

 それはあくまでも戦いの“残響”だった。

 

 演奏会のポスターに描かれた都市の残骸の風景は、そこが復興しなかったことを意味する。

 だがそこには人が訪れ、御参りをし、鳥が飛び、全景は豊かな大地の息吹の中に抱かれている。苔生してはいるが、忘れ去られたわけではない。しかし、物語りは確かに終わり、人々は死んだ。死と輪廻を主題に扱うゲームだったからこそ、安易に「再生」するわけにはいかない。そこに『ヴィーナス』の哲学があり、命を語ることに対する礼節がある。

 

 命あるものがいつか必ず死ぬために、英雄譚には黄金の不死が求められる。

 彼らは何度でも蘇り、何度でも戦い、何度でも勝つだろう。

 無限のループのなかで無限の勝利を収め、そのために飽きられて、新たな英雄譚に取って代わられるだろう。

 そして忘却の海の中で、英雄たちは死ぬこともできず、ただただその状態を「保留」されたまま、無限の再生を続けることになる。

 不死者が生に飽きて死を求めるという陳腐な展開を誰もが知っているように、黄金の英雄は、当事者にとっては地獄であることを、実は、誰もが知っている。

 だから、実際のところ、誰も英雄を身近に置きたがらない。誰も英雄を、当事者としては「愛し」たくない。ただ「崇拝」したがるだけだ。

 

 だが、物語を愛するのなら――あるいは人や命を愛するのなら――その終わりを看取ること、最期まで観測することを避けることはできない。

 私たちは自分が愛するものとともに老い、その死を看取って、心に小さな墓石を持ち、それを宝石のように後生大事に抱えて生きていかねばならず、その様は傍目から見れば間抜けかもしれないが、実はそれらが移ろい行く時代の流れに流されない数少ないよりしろでもあるのだ。

 

 だから、『ヴィーナス』は蘇らない。

 ただその音色を知っている人が時折ひそかに奏でて、過ぎ去っていった命や物語に対して、鎮魂と感謝を捧げるのみ。

 愛され、死を看取られるものは、虚実を問わず幸福な存在といえるだろう。

 それはいつかまったく違う形で、新しいアイデアと共に生まれ変わるだろう。

 『ヴィーナス&ブレイブス』がこの期に及んで流行して欲しいなどとは思わない。

 しかしその物語りのなかに込められた満身の愛と目の前の生命への祈りは、人の道として何がしかの形で引き継がれなければならないと思う。

 

 あなたは英雄の愛し方を知っているか?