2014/11/17 若者に勧めることはない
あー。
Yahoo!ニュース - 椎名林檎、単独インタビュー 「いつも死を意識」「子ども5、6人産む」 5年半ぶり新作 (withnews)
※以下、ただの個人の見解。
たぶんこの人は死ぬまで「男」を怨み続けて「女」のために歌い続けるのだろうなあ……(カギカッコ超重要)
時代の変遷に従って多くの人が支えきれなくなった二色のジェンダーを持ち上げ続けられるだけの実力を持ってるから。
シンプルに生きること、自分が幸福であること、はとても大事なんだが、表を歩く上で服を着ることが欠かせないように、なんらかのイデオロギーを背負うことも欠かすことができない。
最近感じるもやもや感は、「そこ結論かよ」の一言に尽きる。そんな単純な二項対立に戻ってくるような強度の歌謡じゃなかった“はずだ”。むしろ敢えて典型を取り上げることでそれを破壊することを目的とした命がけのメタゲーム、それが『自作自演屋』という自称に込められたテーマだった“はずだ”。
だがそれがそうではないことは、『本能』の時点でももう既に明言されていた。それは実際には、何度でも何度でも打ち付けられる女性性という鎚だった。椎名林檎の“アナーキズム”とは、価値観の破壊ではなく、極めて真っ当な女子力行使による戦争行為であり続けてきた。
「美しさ」とはなにか|ワイングラスのむこう側|林伸次|cakes(ケイクス)
アウラ、もしくは「美しさ」という概念は、生命に紐付かないからこそ、広く人の心を打つのであって、その感動を受け止めきれずに生活に結びつけてしまうと、それは魔力を喪ってしまう。
それがアーティストの持つ作品の強度と、その代償に迎える避けることのできない断絶の正体だ。
そして彼女が抱えるその業は、多分今の若者が背負ってはいけないタイプのものだと思っている。
だからいつまでも好きだろうけど、人には勧めることはいつまでもないだろう。
せめて体よく回収されませんように……。
2014/11/16 調和させたいだけ
艦これ始めて1年以上経った。
艦これというゲームはソーシャル要素を外注するという形でソーシャルゲームとして成立している。
モンハンとパズドラに言いたいことを読んで。近年のゲームデザイン - ぐ~たらオタクの似非考察日記
ゲーム攻略といえばWikiの時代、艦これはゲームそのものよりも、Wikiの方にゲーム性を立脚した。情報を集め、研究し、検討し、議論するという集合知の醸成の過程をゲームプレイの核に置いた。
去年の夏コミあたりの時期から始めたけど、ストーリーがなければ戦略性もない、見た目もサイトバナーが殴り合ってるだけのゲームをなんだかんだやってられるのは、あらかじめプレイングが艦これ内部に限定されないように作られているためだろう。
第一、ここまで生活を邪魔しないゲームもない。やることは定時ごとに遠征を出し直して兵站を整え、特定のステージを回してレベルを上げるだけ。自分はイベントが始まっても情報が出揃ってから出撃するので、クリアに必要な艦種を揃えたら、あとはひたすら試行回数を重ねていくだけ。ぶっちゃけ画面見てなくてもいいのでほとんど見てない。
それでも続けるのは、基本的には艦娘がどのようなパーティを組んでどのような冒険をしたかという脳内であらかじめ組みあがったプロットへの「味付け」、例えば思わぬところで大破して撤退を余儀なくされたとか、普段目立たない艦娘が正念場で決めただとかいった事件性が欲しいからだ。最近はイベントで多数の艦娘の動員が必要になる連合艦隊の導入により、艦隊運営にある程度の方向性を持たせることが必要になってきたが、基本的には一回構築した(構築方法は一から十までWikiに書いてある)ルーチンを繰り返せばまずクリアできるので、個人のスキルが入り込む余地がない代わりに、詰みはほとんどない。
現在のようにWikiに情報やサンプルが完全に出揃うまでの去年夏あたりは、逆に必勝パターンが見えないので試行してサンプル採取に努めるしかなく、プレイ中は無事を祈り続け、プレイ外では有効な戦略を話し合うという経験の繰り返しが、艦娘への思い入れを深め、自然とプレイヤーの間で物語が組み上げられていった。
↓おすすめ
艦これ - 「艦娘歳を取らない説」/「ビリー」の漫画 [pixiv]
艦隊これくしょん - 「かんこれまとめ6」/「deco」の漫画 [pixiv]
だから、艦これを長くやっているプレイヤーのほとんどは、それぞれの艦隊の行く末が気になるからこそ、細々とプレイし続けているのだろう。
これは実際、フリーシナリオシステムを持つサガシリーズや、The Elder Scrollsシリーズのような箱庭型RPGのプレイ感とほとんど一緒だ。
艦これというゲーム自体は、TRPGのルールブックやTCGのスターターキットのように、世界観を匂わせるデザインを提示すると共に、最低限の取扱説明書を付けたツールボックスのようなもので、そこにどんな鎮守府を描けるかは各々にかかっている。
接待やパチンコのようなゲームが多数を占める中で、上手いこと脇腹を刺した今らしいゲームだなと思う。一方通行の社会の中で、縛られた社会性を開放し、倫理や法を構築する高度な知性を駆動させられる場所としてのゲームという仮想の新天地。
……しかし流石にシンプルすぎて存在感がなくなりそうなぐらい薄くなってる今日この頃。もうちょいテコ入れ欲しい。
2014/11/10 幼さって負け慣れないことさ
って思うよ。
同僚を見てて。
自己防衛のために人を悪者と観ることは誰でもやってることなんだけど。
でも自分で作った壁は自分で壊さないとしょうがないわけで。実際他人からしたら無敵の壁なんだよなー。
別に現実世界で傷を作る必要なんてないから、もっと色んなゲームや小説や映画や音楽やアニメやに触れて、細かく細かく、擬似的に敗北や喪失を経験して、気づけるといいねって思う。文化って実際現実という毒の予防接種であるという素晴らしい効能を持ってるので、ガンガン突っ込んでいけ。って思う。
って思うだけで言わない。昔親切を細かく配布してたら器ごと持ってかれてショックだったからやめた。
「おお神よ クソ溜めで溺れるがいい」
マルセル・デュシャンの便器が変えたもの - (チェコ好き)の日記
デュシャンが便器にサインをした時、美術からは美と属人性が引き剥がされ、美は形而下から放逐され、属人性は宗教に回収されてしまった。メタゲームが始まって、「なんでもあり」が許された代わりに、作品が持つアウラは相対化の波に洗われ流されてしまった。
メタゲームで優劣を決めるのはより優れたルールブックを作り出したものだ。今やあらゆる作品の裏側にはジュースの原材料表示のように当たり前に作者の解説や物語が付く。
レッドブル創業時の企画書「レッドブルのための市場は存在しない。我々がこれから創造するのだ。」|リーディング&カンパニー株式会社
コンテクスト・コーティングとでも呼ぶべきか、付加価値のつけ方で勝負が決まるようになってきた。間口は広く、できる限り饒舌に語られ、より多くの人にとってわかりやすく、過ごしやすく。
「美」は「快」と結び付けられて、ユーザの手の届く範囲に見出されるようになり、シェアが、ただそれだけの事実によって、感動を生み出すようになった。
最近とみに思うんだけど、
“間口が広い”ことって大事……か……?
一つの文化が連綿と続くことってそんなに大事……なのか……?
革新が行われるためには、新規参入者は当事者として自分の解釈を説明し続ける責任があるし、保守層はそれを受け止めて検討し誠意ある批評を行う義務があるけど、それってものすごく、ものすごく難度の高い繊細な手続きで、それに耐えて淘汰の波を乗り越えることって実際問題、無謀だと思うんだよね。
「届く」ということは本当に重要なこと。だけど、残り続けることが必ずしもそれに寄与するとは限らないんじゃないか……?
と最近悶々と考えている。
本当は色々繋いでちゃんと考察したいんだけど、眠いからこんなもんしか書けん。またいずれ。
BABYMETALのNY公演、海外メディアも驚愕 「熱意と知性を感じる」「バックバンドが恐ろしく上手い」 | ニュースフィア
2014/11/09 三色刷りの自然現象
何度目かのブログをまた始めた。
リアル中学生時代にHTMLタグ打ち支援ソフトを使って手作りのテキストサイトを興してから、単に思い付きを書き留めるためだけに割と膨大な量の文章を書き付けてきた。
mixiに移行してからはあのボタン一発で日記の入力画面にいけるレスポンスの良さ、書いてすぐ一定の人数に通知が行くっつー発信コストの低さに大変満足していたのだが、サンシャイン牧場が出てきたあたりでmixi自体が廃れ感を醸し出し、あと人間関係が諸々腐ってきて面倒になったのでTwitter*1に逃げてきて、以来書き留める場所難民としてのインターネット生活を長らく続けてきた。
いやTwitter、とっても良いのよ。別にエントリ書き起こすまでもないことはむしろ140字以内に収めるべきだし、そもそも書かない方が良いこともあるってことが使ってると分かるし。でも何かを語ったりまとめたりするにはもちろん不適で。そこではてなダイアリーを利用し始めたんだけど、はてな記法に毎日細かく心を折られていって、日記ならば既存のブログのCSS弄らしてもらうぐらいがいいなあ……と考えてたら、はてなブログはサクッといけるやつだったのでこちらに住んでみることに決めた。
長らく書きたいテーマなんてものが無かった(厳密にはそんな悠長なこと考えて生きていられる心の余裕も体力も無かった)んだけど、割と色々な種を貯めてこられた気がしているので、まずは随想を置いておけるところを差し当たりで作ってみた次第。
実際2年前ぐらいからこれまでの人生から考えもつかないほど各所に脚を伸ばす機会が増えたので、色々書けることはあるんだよな。まあそこらへんはまた日を改めて。
鈴木千佳子さんドローイング展『メゾンブーケ』に行った。
8月にHESOMOGEこと川口忠彦さんの個展でギャラリートークを行った際に知り合ったデザイナーさんが勧めていた展示に行って来た。場所は神宮前のタンバリンギャラリー。
あんまり今日はアートを観る気力を持たず出たもので、前情報を一切仕入れずに足を向けたんだけど、そんな自分を鈴木氏の作品は嬉しくなるぐらい柔らかく迎えてくれた。普段、企画展などにはガチの(脳内)殴り合い、もしくはプロレスか何かを仕掛けに行くつもりで行っているので、ちょっと本筋から外れていたかも知れん、と反省。氏のドローイングはデザイナーとしてお仕事をされているご本人が緑の多い青山界隈を散歩して、気に入った情景を万年筆で描かれたもの。
所謂一部のコミックエッセイのような親しみやすいタッチがあり、ご本人が散歩や街の“ブーケ(花束)”との出会いを心から楽しまれている空気が伝わってきつつ、しっかりとアートとしてのアウラ*2も発揮する、豊かさとカオスの間をするっと通り抜けるような作品群。間違いなく美しくて、楽しくて、落ち着いて、いつまでも観ていたくなるのだけど、たったの三色を器用に描き分けて織り出される草木の表情を見ていると、「こんなに植物に顔の違いなんてあったっけ……?」と不思議な気持ちになって、さらに見入ってしまう、そんなループにはまってしまった。
それはもちろん、あの豊かな界隈の花壇にはデザインとして然るべき配置で然るべき観葉植物が植えられているということもあるけども、長く東京で生きていると街路樹を見慣れて忘れてしまう、ただの記号としての緑でない、生き物としての植物の存在感を思い起こさせる迫力がある。
使われている色は三色。この配色は受験や資格勉強の参考書などでお目にかかることも多い三色刷りの雰囲気にも近い。要するに、街も、散歩している氏の視線も、この絵の中の主人公ではなく、そこに生きている植物こそが、ドローイングにおける主役なのであって、花壇も、通行止めの看板も、消防水利も、彼らのためのステージに過ぎないのだ。
会場にはスケッチブック(布張りの表紙は単色で緻密に描きこまれた植物で覆われており、本としてとても魅力のあるデザインをしていた)も複数置かれていて、そこに取りとめもなく描かれる葉や花を見ていると、そういえば植物というのはそこにいけそうなスペースがあればとりあえず自分の存在をねじこんでいくというノリの生き物だったよなあ、と妙にしっくりくる。
それにしても人は何故こうも緑に囲まれたがるのかね。おそらく、都市が生み出すランドスケープはまだ、森や山の植物たちが生み出す色や音の配分を越える快さを持たないのだろうな。展示帰りに道沿いに植えられた草花を観察してみたら、確かに同じ枝に生えた葉でもくすんだものからただ一枚やたらと瑞々しいものまで様々で、そんな基本的なことも忘れているようじゃいかんな、とまた反省したのだった。
スタッフの方にお茶も振舞って戴いたし、とても良いところなのでまた来たい。
読書配分。
今読んでいるのは、川上未映子氏のエッセイ、『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』。でも随分前から小説以外の、こうしたエッセイや新書などはそれ一冊だけを集中して読みきることができなくなっていて、常に読み途中の小説か、何か物語性のある文章が基軸にないと、なかなか読書自体をしなくなってしまっている。
そも、読書しなくても毎日はてなやらcakesやらCINRAやら各ブログで内容の濃いコラムやインタビュー等の文章を山ほど読んでいるので、読みたいという欲求自体は割と充たされてしまっている。あと自分で小説を書いてると、その展開を考えるので代替になったりもする。
ともあれ紙の本から離れるのはよくない。何がよくないって、現世と断絶できない。ネットと地続きの記事では連絡途絶できない。そういうことをしているとさっきのみたいに植物の色まで忘れて一緒くたに緑とか言い始める。よくない。そういうわけで、青山ブックセンターに行って本当は社員旅行のしおりを作るためにイラレの解説書を読みにいったんだけど買わずにフェアにまんまとハマり、かねてから欲しかった本をいくつも買ってきてしまった。マジで財布のこと考えてんのか?って自分で思うぐらいあそこでは本を無駄に買うのだが、とにかく最果タヒさんの詩集、『死んでしまう系のぼくらに(以下)』のほか、彼女による選書フェアでJPホーガンの『星を継ぐもの』を手に入れられたので大満足。
詩には昔からかなり興味があって、主に詩の作られ方を暇のあるときにちまちまと調べてきた。どうも戦前戦中、新聞の紙面上の芸術として権威を得てきたという過去があり、そこから一気にマーケットを失って萎んで、っていう流れがあったみたいだけど、もちろん谷川俊太郎氏をはじめ、文学、美術としての詩を磨き文化として継承する流れはあったわけで、最果タヒさんは携帯アプリで詩をリリースしたり、遊べるゲームを作ってみたり、詩そのものも抽象性に言葉をすぐに投げ出してしまわないで、しっかりと感覚に付き合っていく地に足の着いた真っ当なつくりをしていて、今を知る上で欠かせない作家の一人だと思っている。
まあそれについては読み終わってから改めて書くとして、これでエッセイ、詩、小説(とあとは新書やミシマ社社長のノンフィクションもある)と隙の無い布陣を完成させた。長い道のりだった。(?)読書家だったのははるか昔の話で、基本的にはゲーマー&映像の人で、SFが好きといっても古典は全然詳しくないのでいい機会でもある。好きな人が好きなものは頑張って食べれるもんだ。
音楽ジャンキーが社会人をしてると本を開く機会はなかなかないが、持て余した時には小説を、ちょっとした隙間にはエッセイやノンフィクを、寝る前に詩を読み込む。内容的にこのバランスがはまりそうだから、ちょっと試してみるつもり。
豊かなる孤独だけが、人がどこにでも持っていける唯一の財産なわけですよ。