2014/11/10 幼さって負け慣れないことさ
って思うよ。
同僚を見てて。
自己防衛のために人を悪者と観ることは誰でもやってることなんだけど。
でも自分で作った壁は自分で壊さないとしょうがないわけで。実際他人からしたら無敵の壁なんだよなー。
別に現実世界で傷を作る必要なんてないから、もっと色んなゲームや小説や映画や音楽やアニメやに触れて、細かく細かく、擬似的に敗北や喪失を経験して、気づけるといいねって思う。文化って実際現実という毒の予防接種であるという素晴らしい効能を持ってるので、ガンガン突っ込んでいけ。って思う。
って思うだけで言わない。昔親切を細かく配布してたら器ごと持ってかれてショックだったからやめた。
「おお神よ クソ溜めで溺れるがいい」
マルセル・デュシャンの便器が変えたもの - (チェコ好き)の日記
デュシャンが便器にサインをした時、美術からは美と属人性が引き剥がされ、美は形而下から放逐され、属人性は宗教に回収されてしまった。メタゲームが始まって、「なんでもあり」が許された代わりに、作品が持つアウラは相対化の波に洗われ流されてしまった。
メタゲームで優劣を決めるのはより優れたルールブックを作り出したものだ。今やあらゆる作品の裏側にはジュースの原材料表示のように当たり前に作者の解説や物語が付く。
レッドブル創業時の企画書「レッドブルのための市場は存在しない。我々がこれから創造するのだ。」|リーディング&カンパニー株式会社
コンテクスト・コーティングとでも呼ぶべきか、付加価値のつけ方で勝負が決まるようになってきた。間口は広く、できる限り饒舌に語られ、より多くの人にとってわかりやすく、過ごしやすく。
「美」は「快」と結び付けられて、ユーザの手の届く範囲に見出されるようになり、シェアが、ただそれだけの事実によって、感動を生み出すようになった。
最近とみに思うんだけど、
“間口が広い”ことって大事……か……?
一つの文化が連綿と続くことってそんなに大事……なのか……?
革新が行われるためには、新規参入者は当事者として自分の解釈を説明し続ける責任があるし、保守層はそれを受け止めて検討し誠意ある批評を行う義務があるけど、それってものすごく、ものすごく難度の高い繊細な手続きで、それに耐えて淘汰の波を乗り越えることって実際問題、無謀だと思うんだよね。
「届く」ということは本当に重要なこと。だけど、残り続けることが必ずしもそれに寄与するとは限らないんじゃないか……?
と最近悶々と考えている。
本当は色々繋いでちゃんと考察したいんだけど、眠いからこんなもんしか書けん。またいずれ。
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