七梨乃手記

……あなたは手記に食い込んだ男の指を一本一本引き剥がすと、頼りない灯りの下それを開いた。@N4yuta

無生産性と呪いを完成させるもの CITY OF GODとか1984とか

他人の事情を理解できるほど賢くないわれわれに、納得して生きるための知性なんてない

恋ダンスブームのことを覚えている人がどれだけいるのかというぐらい、この国のポップ的何かの流行り廃りが早く、もはや一種の発作としか言いようがない。何しろ継続しない。議論がない。語らないので残らない。この国で批評はクールな文化ではないからだ。

そもそも『逃げるは恥だが役に立つ』を観ていないやつが言えることではないかもしれない。なんにしても、ジェンダーフリーの歌詞を採用した『恋』と、劇中の ”自分に呪いをかけないで。そんな恐ろしい呪いからはさっさと逃げてしまいなさい” という名台詞が『アナと雪の女王』公開の3年後の現象であることを考えると、なるほど、 ”アメリカで流行っていることが3年後に日本でも流行る” を地で行くようで、レイシズムが路上に溢れるのも時間の問題かもしれない。

 

 それにしても、”毒親” ”呪い” という言葉が流行り始めた。かくいう自分もこの二つの被害者だ。もっとも、もともとそれらが毒であり呪いであったかどうかは疑っている。とりあえず家族を作り、単位を統一して、生産性で測ることで社会を運営していくことが効率的だった時代があり、それが変化しようとしているだけだと思う。インフラが十分でない環境下で人が当てにするのはやはり家族であり絆だ。それはもう本能だろう。Walking Deadよろしく都市機能が何らかの要因で破壊されれば、人はまたそこに立ち戻るかもしれない。”トライブ”という哲学にだ。

 

CITY OF GODをHuluで観始めた。ブラジル・ファヴェーラ(スラム)”神の街”で、例によって子供も銃を持ち、クスリを捌くために殺しあう、そんな映画だが、意外と演出に凝っていてとても見やすく、コメディのような空気を感じる瞬間すらある。

サグ・ライフものを観ていると、悪の特徴というのは「特別でないこと」その一点につきるとわかる。正義、あるいは知性はそれ自体が人間を構成するその他のあまたの要素の中でのイレギュラーであり、根本的に、それを必要としない人間にとっては不要なものでしかない。

そして、知性の利用法も確立されていない。倫理というレギュレーションは不完全なうえに、体裁を保つだけで精いっぱいなのが現状だ。しかも今日日ヒロイズムに頼っている。

 

ジョージ・オーウェル1984年』がトランプのおかげで売れているらしいが、そんなこととは関係なくこの間積み本崩しの過程で消化した。序盤が死ぬほど退屈だが(退屈でないと後が活きないからだろう)中盤以降、病み切った大国による”停滞の政治哲学”の話になるとぐいぐいと読者を引っ張ってくれる。

完全に完成された監視国家を舞台に、いかにして知性を持つものから意思を剥ぎ取るかという洗脳のプロセスを詳らかにしたヤバイ本なのだが、継続的な拷問と”二重思考”の教育、つまり反体制的な思考に対して即座に自分の心の中で反証をぶつけて打ち消すことで思考のエネルギーを発散させ、自発的に知性を放棄させる条件付けを徹底的に行う過程が臨場感たっぷりに描かれる。そして洗脳の最終段階では、あらゆる監視と拘束から解放された「ふつうの一市民としての生活」を送らせることで偽りの解放感と優越感を与え、そのカタルシスを指導者への感謝の気持ちに還元させる。

言うまでもなく、自由とは「拘束されていないこと」「苦痛を与えられていないこと」ではない。自由とは、自らの決めた掟を死ぬまで貫く終わりのない闘争であって、自らの中の知性とそれ以外の間に生まれる苦悩との対峙である。しかし、物理的なダメージは簡単に人の判断を見誤らせる。肉体を越える精神などない。あるとしても、それは執着と妄信から来る一時的な高揚に過ぎない。そもそも鍛えていない人間にできることなど限られている。

 

古い生存戦略に囚われた人間と手を切ることは大切だし、自分のものではない思い込みが自分の人生の足かせになっていないか確認することもとても大事なことだが、最も大事なのは「拘束からの解放」と「自由」を見誤らないことだと思う。前者はコピーの完了、呪いの完成のトリガーにもなりうるのだ。手段が大切である。まっさらな休養を得た時に、やらずにはいられない夢中なものがあるのであれば幸い。しかしそうでなければ?

練り上げるしかない。いくらインターネット上のUIだのアーキテクチャだのが進化してコミュニケーションの手段が増えストレスフリーになったところで、肉体はただ一つであり、人は肉体を通してしか世界にアクセスできない。それは物理的に融合できない絶対的なものであることを忘れてはいけない。

新たな生産性を身に着けることが正解ではないかもしれない。それはまた別の呪いでしかないかもしれないからだ。あれは承認欲求でこれは、という切り分けも無駄だ。自分が大なり小なりコミットできるものでないと意味がないからだ。

 

闘争は手段ではなく目的でなければならない。少なくとも現状の人間のスペックからするとそうだろうなと思う日々である。