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七梨乃手記

……あなたは手記に食い込んだ男の指を一本一本引き剥がすと、頼りない灯りの下それを開いた。@N4yuta

村上隆の五百羅漢図展

我々は、大勢であるがゆえに。

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美術に限らず、あまねく芸術において基本的に必要なものがある。

それは情報量だ。

 

だからといって人はただのゴミの山にいちいち心を動かされるわけではなく、

そこにはあるバランスがなくてはならない。

 

海や山を見たことはあるだろう。

ひとつひとつの要素に意味はなく、ましてや“秩序”なんてどこにもない。

それでも不快に思わないのはなぜか。煩く見えないのはなぜか。

 

重力のためだ。

 

常に揺れ動く波間や、擦れる葉がなす、さんざめく境界線は、重力に引かれて目一杯に張り詰めた、世界の際(きわ)だ。

人はそれを見て、そこに立った自分を発見した時、そのはちきれんばかりに詰まった情報の海の中で、ようやく自分という存在が空ろなものではないのだと気づく。自然なるものの圧倒的な質量を前に、納得する。

ああ、これだけふんだんな世界なら、人間くらいひり出してもおかしくない、と。

 

だから極端な話、芸術や宗教の目的は、

宇宙を解像度高く描き、重力を可視化することであって、

そうすることによって、人を安心させることだといえる。

 

だがそもそも、人はなぜ安心していないのか?

なぜ生の大地では十分でなく、芸術の需要は絶えないのか?

人は何を恐れているのか?

 

重力だ。

 

今にも引き裂かれそうなこの世界は、事実あまりにも簡単にその形を変える。

人間くらい容易く生み出すこの世界は、人間以外のものも生み出し続け、次々と地上へ送り出す。飽和し、変異し、喰い合い、その中には当然、人間を激烈に殺しつくしていくものもある。

人類が「戦争」という言葉を覚えるずっと前から、この溢れんばかりの世界は、殺しあってきたのだ。

 

人が価値ある情報、納得できる意味、揺らがない真理を求めるのは、

そうしなければ奪られる魂があるからだ。

人は魂のイメージを持たずには生きられない。

それを持ち続けるには、意味を喰らい続ける以外にない。

自分たちは重力を操り、自然に勝利し続けているという感覚が、人間には必要だ。

それは揺らいではいけない。

 

だからこそ、芸術には自然を越える情報量と、重力を模した究極のバランスが求められるのだ。

それこそが意味の無意味の意味ではないのか。

 

 輪廻は唸りを上げて世は煌めく地獄を目指す。

 上の動画の3:40あたりに、金銀の箔押しがされた二枚の作品がある。

村上隆のトレードマークともいえる、無数の髑髏がかすかに浮かび上がる中を、書道家の一筆を思わせるような大胆な筆致の丸が走っている。「これは未完成」とうそぶく村上隆の台詞に乗せられるように、観覧客はこぞってこの作品の前に立ち、記念写真を撮る(なんとほぼ全ての作品が撮影OKだった)。

なるほど、五百羅漢図を雑に引用すれば、後光を放つ羅漢に習って「羅漢ごっこ」ができると勘違いしてもおかしくない。

 

だがどうだろう、きらびやかな光の中、円に囲まれて立つその背には無数の髑髏がこちらを睨んでいる。完全なる勝利、永遠の安息を謳う金色も空しく、粒揃いに魂の篭った髑髏の山に抱かれて立つ様は、永遠に解脱の望めない、輪廻に囚われた哀れな獣に見えないだろうか?

 

100万回生きたねこ』を彷彿とさせる、不死性の地獄は見えないか?

たとえカタコンベと脇に書かれていたとしても?

 

見えないのだ。

そこが村上隆の作品のクセでもある。

 

スーパーフラットの時代……国家や宗教によって束ねられていた価値観が解体され、等しく、まばらに、あらゆる情報が漂う時代に芸術は、立てるのか。

東日本大震災によるショックが、五百羅漢図にリアリティを持たせたと彼はいう。現代に更新された新しい説法が必要だと。

実際、彼のやったことは正しく現代の芸術であり、救いの道を見せる、ということをやり切ったと感じた。

 

それは昨今のポップミュージックのような情報の過積載などとうの昔に通り抜けたといわんばかりの、あまりにも執念深い情報量への拘りに見られる。まるで281兆5000億種類のピースでジェンガをやるかのように、敢えて積み、敢えて重ねて、色の組み合わせに破綻を来たさぬよう、一つ一つの際に細心の注意を払う仕事ぶりは、敢えて自らの命を危険に晒し、その状況下で理性を働かせようとする、修験者たちの持つある種の狂気を追い求める姿勢が見える。

 

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製作に大量の学生らを起用して、システマティカルに百人体制で当たったことも一つ。

過去の作家たちは、個のポテンシャルを深めることで、いわば個人の情報密度、ドラゴンボールの戦闘力のようなものを高めることで、クオリティの上昇を図った。

だが一定のバリューを持たせるという点をクリアしたければ、よく統制された集団を動員すれば当然可能だ。

流行を咀嚼し、多面的に解釈して、最後に膨大な力で一点に凝縮させる。多くの若者に「五百羅漢図に関わった」というキャリアを与え、作品には50メートル離れても1ドットの欠けも起こらないような高い解像度が備わる。重ねて、重ねて、輝かせ、並べて、圧して、鏡面加工まですれば当然そうなる。

 

まだ仏教が大いに力を持っていた時代の、固い信仰に裏づけされた物語を骨に、磨き上げられた資本のメカニズムで肉付けを行う。水木しげるの妖怪画のどこか滑稽なキャラクター性とアニメーションの過剰演出も筆の払いに込めて、全ての人の想像を越えるスケールと、緻密さで、大から小まであらゆる神仏羅漢神獣を描き分けてみせ、誰もがそばに立って楽しめる、撮って遊べる、それでいてコモディティ化するでもなく、芸術作品としての存在感は揺らがさない。

仏教の説く真理をクリアに現代に伝え、日本のポップアートを一歩先に進める、少なくともリードする、それらをやり抜いた村上隆の仕事を誰が貶められるだろうか?

 

森美に通うようになって、これまでで間違いなく最高の展示だった。

色の奔流を浴びられたということも、究極の仕事を見ることが できたということも、若い才能の花開くところを感じられたということも、すべてが 望ましく、素晴らしい内容だった。

 だからこそ、殖えるしか手のない生命の空回りする虚しさが確かにあって、この極彩色の軍団は、確かにあの波に、宇宙に対峙するために生み出されたのだろうと感じられた。

既成事実で積み上げた砦は、時の波に耐えられるのだろうか。

時代のアイコンとして観ておくにふさわしい内容だったものの、それが残るかどうかは、

現代同様、これからの十年、二十年が決めることになるだろう。

生み出し続けるしかないのだということを、祝いととるか、呪いととるか、賑わいの中でじっと想わざるを得ず、羅漢たちに挟まれて立ち尽くしていた。