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七梨乃手記

……あなたは手記に食い込んだ男の指を一本一本引き剥がすと、頼りない灯りの下それを開いた。@N4yuta

2015/08/17 あんびるはるか展『おそれ』について

それは食べることができます。

 

 最近展示の感想はツイートで済むことが多いし、取り立ててブログに書くようなことも無いので書かなかったが、今日の展示の感想はなんとなく家に持ち帰らないとうまくいかない気がした。

 

soundcloud.com

 

 現在はhjarta(イエルタ)名義で音楽活動をしつつ、絵画の発表もされているあんびるはるかさん。昨年HESOMOGEさんの個展でライブを拝見したのをきっかけに、展示にも伺い、その縁で今回の展示の招待を頂いたので、明大前のブックカフェ槐多にお邪魔してきた。

 

 

 あんびるさんの絵は猛烈に歪んでいて、歪んでいるにも関わらず、何かすとんと腹落ちするような安心感がある。あってはいけないものがあり得てしまっている現実を認めて立っているような佇まいは、何かを想像するということは、本当は新しい幻想を作り出すとかいうことではなく、ただかろうじてこの肉体の中に収まっている矛盾を、そのまま表出しているにすぎないと語りかけるかのようだ。

 それは言ってみれば偉大なことではないし、特別なことでもない。言葉を持った時点で理性と本能とに引き裂かれる定めの動物である人間が、かくも理性“的”に振る舞えていること自体が、まぁ奇跡的なことなのだ。自らを縛り上げ、歪まないことには、人が“佇む”ことなどできない。

 

 ご本人曰く、描き始めたきっかけは嫌悪感だったという 。

 それでもそうしてできた絵は何故か自分が好きなものになり、結果的に展示は自分の好きなものに囲まれるような状態になったそうな。

 自分の心を引きずり回す嫌なことが溶けていき、人になんと言われても構わないと言えるほどの確信を持って愛せる絵だけが遺った。それを聞いて、やはりマリオ バルガス=リョサを想わずにはいられない。即ち、人が何かを作ることや、表現することで得られるものは、そのために自分自身を喪うということなのだ。

  それは、例えば猛毒を持つフグを調理しておいしく食べてしまうように、自らの中に生まれた「おそれ」を取り込んで、ものにしてしまうということ。食べられるところ、食べたいところをより分けて、食べたいだけ食べる。それは歪なことだろうか?それはわがままなことだろうか?

 

 

 我々はただそこにいるだけで欠け続ける。何かを絶えず取り込まないことには生きていけない。

 愛すべき醜悪「だった」もの。

  あんびるはるかさんの絵の中には、曇天を根こそぎ持っていく台風のような、荒々しくも清々しい“渦”がうねり、観る人の心のもやをも巻き込んで、ソフトクリームのようにしてしまう。

 

 

 それは食べることができます。

 おいしく。