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七梨乃手記

……あなたは手記に食い込んだ男の指を一本一本引き剥がすと、頼りない灯りの下それを開いた。@N4yuta

狂気は陶酔によって最適化され、現実に適用される――橋本治『恋愛論』について

感想 書評

“カップリングは「世界なんか私とあなたでやめればいい」。やめてからもっかい作ればいいのだよ。”

狂わせ、狂う能力はあるか 橋下治『恋愛論』感想文 - (チェコ好き)の日記

 

 冒頭の見出しは川上未映子の言。

 

 Skype読書会?の流れで、二村ヒトシ『すべてはモテるためである』と、橋本治『恋愛論』への言及を観測した。今回はid:aniram-czech氏が新たに取り上げられている『恋愛論』の方に乗ってみる。いずれもcakesで紹介されていて、自分もそこでこの名著を発見した。

 


恋愛論(橋本治)前編|新しい「古典」を読む|finalvent|cakes(ケイクス)

 

 『恋愛論』がすべての人間に一読をおすすめできる理由は、橋本治というひとが独り、本書の下敷きとなった同名の講演の始めから終わりまで、恋愛の実存を否定し続けたことにある。彼はそのために壇上で自らに呆れ、泣きすらするが、それでも彼はあくまでも自律して現実に作用してくる第三者的な「恋心」の存在を丁寧に否定し続けた。

 上記finalvent氏の書評では、そのようにして自ら意味を削ぎ落としていく中でどうしても滲み出てしまう感情、心の反動を観衆に見せていくライヴ感が評価されているが、まったくそのようにして、言葉によっては定義され得ない恋愛というものの実在を語ろうとしているわけだ。

 

 まず、16ページでいきなりこんな文句が飛び出してくるわけで。

 

 この世には結婚というものはあって、そのことはとっても確固として存在していて、それのお余り、そこに行く途中のお目こぼしとして“それを恋愛として享受する自由”とか“楽しい交際”っていうものがあるっていうことですよね。つまり、この世には恋愛というものが存在する余地、恋愛というものを受け入れる余地っていうものはないんですね。このことをしっかり頭に叩き込んどいた方がいいと思いますね。

恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂) p16

 

  恋はするもの?落ちるもの?だとかいう問い以前に、「恋なんて無いのだ」と言い放ってしまう橋本。本書では極めてシステマティックに、この世界における恋愛の立ち位置について分析と検討が繰り広げられるわけだが、それは「『現代社会において』恋愛というのはどのあたりの立ち位置にあるのか」とか、「打算的である方が良いのか、情緒的である方が良いのか」とかいった次元をさくっと乗り越えて展開されていく。

 橋本治というひとは、本人も何度も言っているが、自らの我の強さを明確に自覚し、それを強みとして押し出していくことにためらいのないひとで、自然、人生を語るスタンスにしても徹底した実存主義というか、とにもかくにも世界には「自分」が最初にあって、「自分」には現実と向かい合って解決していかなければならない課題があり、それは何かって、要するに「自分」に足りないものをどんどん取り入れていくという、それがすべてだという考えのひとなので、恋に落ちているという状態について、とにかくそれはモラトリアム、まったくの空白期間なのだと語る。そしてその空白とは、つまるところ自分が次のステージへ移っていくための緩衝剤であって、箱に詰める丸めた新聞やビニールのクッションのように使われるものなのだと定義するのだ。

 

 要するに、他人の美点を取り入れる努力もしたいが、しかしそれはメンドクサイ。メンドクサイ上に、そんなことをしたら、このどうしようもない自分にもやっぱり備わっている“自分の美点”というものを失ってしまう。そんなメンドクサイ、しかも収拾のつかない矛盾のようなものを突っつき回していてもしょうがない、サイワイ、自分の中には“恋愛感情”という便利なものがあるではないか。今までこれがどういう使われ方をするものであるのかよく分からなかったが、なるほど、遂にここへ来てこの不思議なものの利用法が分かって来たぞ、分かって来たような気がするぞ――

恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂) p94

 

  橋本治にとって、恋愛とは緊急避難なのだ。

 この世界に生まれ落ちて、自分を構築していくなか、独力ではうまくいかない気分になり、どこか手詰まりを感じる……そんなある地点における「成熟」を迎えたときに、眼前に飛び越えなければならない(が、あまりにも大きな)クレバスが見えてきて、その向こうに「誰か」が立っていることを発見し、そこからモーレツに恋というものは始まっていく。この“感性的な成熟”、橋本がいうところの“陶酔能力がある”とはまさにそのことを言っている。要は、「自分を愛せなきゃ人も愛せない」わけだけど、その自分はやっぱり自分で作るしかない、土台を作ってその上に立った時に、初めて他者というものが見えてくるのだ、ということ。

 

 ではその後恋愛はどのように推移していくのか?

  橋本は、恋をするとは、目指すべき“陸地”と自分との間にあるクレバスに猛然と「妄想を投棄」し、埋め立て地を作ることで繋ぎとめていく作業であると説く。

 

 恋愛っていうのは、自分ていう海の中の離れ小島と“陸地”っていうものの間を、妄想というものをドンドン捨てて行って埋め立てて行くことによってつなぎとめる作業だと思うの。妄想がドンドン捨てられていくから、恋っていうのは、ちゃんと終るんだよね。そして、その埋め立てられて、ちょっとずつ陸地が現われて来る、その状態のことを“幸福”って呼ぶんだよね。 

(中略) 

 恋愛が結婚に続いていくっていう考えでいけば、その離れ小島と地続きになる陸地は“結婚”でしょうよっていうのもあるけど、僕の場合は、実は違うのね。これから先はどうか分かんないけど、今までのところで行けば、離れ小島と地続きになって行く陸地っていうのは、実は“自分”なのね。

 恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂) p127-128

 

   もともと離れ小島だった自分が繋がった先にある陸地もまた自分というのは、一体どういうことなのか。それは、妄想の中の自分が考えていたものとは全く違う、より明確で、強固で、安易なものでない現実、つまり「幸福な自分」との出会いなのだという。それは「理想の自分」ではないが、自由であり、確固たる自分という土台に足をつけた人間であるのだという。

 なんと冷たく、心を打つ考えだろうか。

 

 橋本は、しかし、同時に“幸福感”という欺瞞を持ってはいけないと警告する。

 現に存在している「幸福な自分」と、恋愛において用いられる妄想の中に練りこまれた“幸福感”を一つにしてはならない、と説く。妄想はあくまでも投棄されなければならず、それを使ってレンガの家を建てても、結局それは牢獄にしかならない。妄想には、現実を生むものと、ただ霧消していくものの二種類があり、それは外気に触れさせることでしか明らかにならないのだ。

 

 本書は橋本個人の恋愛体験をベースに語られるものであり、ご本人の性格も相まってそれなりにアクの強い内容ではあるが、そこから映し出されるものは、もはや思想書と人に言わしめるだけの明確な一つの哲学であり、その実践でもある。そして橋本は、確かに幸福なのだ。

 

 我々は時に愛らしい子供を“天使”と呼ぶ。

 それと同時に、泥臭い“人間らしさ”を愛しもする。

 それは、我々が妄想を愛しているからではなく、妄想の世界から脱して、妄想の先に見た幸福を手にしたいと望んでいるから起こる矛盾なのだ。

  人の抱える矛盾とは、それ自体が、その人が現在進行形で成長している証明。

  矛盾こそが、希望と呼ばれるものの正体だ。

 

  恋愛とは、なんと素晴らしいものだろうか。

 

  はっきり言って、もう、この世の中には僕達の他にはなんにもない訳。幸福っていうもの以外はなんにもないの。大空の下一面に広がった、まだ花が開きかけただけの、春のレンゲ畑の上に坐ってんのとおんなじなんだよ。僕の後で、彼が静かに寝息を立ててサ。その、ラクダ色の毛布ン中から、さわってる草の芽なんかが、ホントに出て来るみたいな気がすんの。

 勿論、まだ花なんか開かないんだけど。(中略)でも、「これから花って咲くかもしれないなァ」っていう、そういう大空の下のレンゲ畑の上で、その未来の満開の姿を予想出来るのって、ホントに幸福なことなんだよね。

 俺、それがあったから、その後二十年も生きられたと思う。

恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂) p246-247