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七梨乃手記

……あなたは手記に食い込んだ男の指を一本一本引き剥がすと、頼りない灯りの下それを開いた。@N4yuta

2015/01/13 「くだらない」という言葉すら相対的でして

論理的に保証されたラグジュアリー。


星野 源 - くだらないの中に 【MUSIC VIDEO & 特典DVD予告編】 - YouTube

 年始にドコドコッと、いわゆるハイソサエティな人々との接点があり、色々とお話ししているが、圧倒的過ぎる文化資本の圧力に頭をくらくらさせられている。いやもう本当に外部記憶装置のストックが無尽蔵で、話せば話すほどに自分は論理的な人間などではなく、感性で生きている人間なんじゃないかと思わされる。

 いや実際にそうなんだろうけど……。

 しかし、特に芸術や感性についての話をしていたのもあって、んんー?物事を考えるのにそんなに出典や論理的強度の保証って必要なのー?とどこかで思ってしまうのも事実で(古典マジ大事、それは大いにわかっているし、今年は基礎を押さえなければならないと本当に思っているけれど)、割と抱えてる悩み自体はあんまり変わらないところから察するに、文化的美食家はやはり「快」のバリエーションが豊富で、それを認識するだけの豊かなボキャブラリーもあれど、違いは結局「食べる時に人より細かく噛み砕いて食べられる」ぐらいなのかなぁと考えたりもした。

 でも観える世界の解像度が高ければ、それだけ選択肢も増えるし、行動のインパクトも乗数的に上がっていくのだから、やっぱり文化資本を積み上げることは人生の向上を考えた時に欠かすことのできないものなんだけどね。

  それでも、想像力のジャンプ抜きに、整合性を確かめるようにそろりそろりと人の心を語ることなどできまいよ。そんな風に意地を出してしまう。……はい、その意地を使って勉強しましょうね……(インプットしたものをすぐ結晶化できる技術とか)

 そしてそんな人々にも通じる星野源。何故だ。彼の掬う上澄みの純度の高さを思い知る。ヒズ業イズディープ。

 

 自由は人の手に余るエネルギーだから


仏紙、今週号でも預言者風刺画 過激派刺激も、厳戒続く - 47NEWS(よんななニュース)

 フランスは、言うまでもなく哲学と思想の国だ。

 パリの魅力を置いても心が常に引き寄せられる場所なだけに、どうにも気になって今回のテロ事件について様々な記事を読んだ。

 

一角獣ニ乗リ、月ノ揺籠ニ眠ル。2 エマニュエル・トッドさんの読売新聞のインタビュー

 ・だがフランスの社会構造を理性的に直視すべきで、なぜ北アフリカからの移民の2世、3世の多くが社会に絶望しているのかを考えるべきだ。彼らが過激化している。

 ・背景は長期に及ぶ経済の低迷で、移民の子供たちに職がないことであり、日常的に差別もされていること。そして、フランスの「文化人」ですらが、移民の文化を「悪」とする空気まである。

 

パリに住む日本人が感じた、新聞社襲撃テロのこと|すっぽんぽんパリ|中村綾花|cakes(ケイクス)

今もまだ日本滞在中の私は、この事件でパリは騒然とし、恐怖におののいているのだとばかり想像していました。でも、怯えるどころかデモに参加して意思表明をする人たちが多くいたという事実に驚いたのです。

 

フランスの新聞社 シャルリー・エブド襲撃事件について - alternativeway

 

「ペンにはペンで立ち向かえばいいではないか」
私にそういった人がいる。それが誰にでもできることではなく、
そういう言い方がまた階級や、生粋のフランス人と
そうではない人たちの立場の差を感じさせてしまうのでは
と私は思ってしまうのだけど。あなたにはできるかもしれない。
でも私達はそもそもそんな世界に行くことすらできなかった、
そう思う人たちはいるだろう。けれども誰しもに共通するのは
「だからといって何も殺すことはない」まさに本当にそう思う。

 

日本人の多くはテロっていうものを理解してない

この「主体において拒絶」ってのは、要するに、戦争だ。暴力だ。あいてはルールの違う共同体(これは国籍や住居とは無関係)の住民であり、こっちの法に従う義理はないんだから、「あなたは法を犯したから悪かったですよね?」っていうのは通用しないんだ。善悪とは全く関係ない。「俺たちに損害を与えたからお前らを暴力で滅ぼす」っていうだけのことなんだ。

 

シャルリー・エブド事件後の行進で、私が見た子どもたちの姿 | ゆりくれ** | タレント・レズビアンライフサポーター牧村朝子(まきむぅ)オフィシャルサイト

フランスでは人種や出自に関係なく、フランス国籍を持っている者はみな平等にフランス人とされます。またフランス国籍を持たない、たとえば私のような在仏日本人も、フランス国内に住めば「フランス社会の一員」とされ、フランスの法律をもって差別や暴力から守られます。

ですが中には「いつまでも移民扱いされている」「“ちゃんとしたフランス人”として扱われていない」と感じる人もいます。そして、そういう親の体験を聞かされながら育った、フランス国外にルーツを持つ子どもたちもまた、強い被差別意識を持つ傾向にあります。

特にシャルリー・エブド事件後、そういった子どもたちは、新聞やテレビや学校で教わる内容全てを「マジョリティが自分の都合で言っていることに過ぎない」として切り捨ててしまうのだそうです。では何を信じるのかというと、facebookなんだとか。そうやって耳をふさいでしまう子どもたちに、何をどう話せばいいのか、先生たちは頭を抱えているようです。

 

 暴力による抑圧に対して掲げられる『自由』と、実際に人々に幸福をもたらす機能する『自由』とは、大きく異なるものなのだと思う。

 前者は単に「かくある抑圧からの解放」を示す反動に過ぎなく、それは容易に「もう一つの暴力」になり得る、ただの盛り上がるエネルギーだが、後者、つまり本来的な意味での民主主義とは、個人に自己批判性を求める社会のあり方だ。それは個人に「ものを想う」という痛みを背負う覚悟を求める社会であり、それによって容易に生じる衝突に対し、不断の交渉と対話を求める社会だ。

 シャルリー亡き後のシャルリー・エブドの風刺は、そこに込められた信条を勘案しても、手段としては紛れもない悪手だと思う。ムハンマドを出して泣かせるというのは、テロの責任を全イスラム世界に投げつけるもので、市民の熱狂をテロリズムを生み出した・もしくは誘引した構造に対する疑問へ向けさせるものではなく、既存の差別問題の根をさらに深め、差別者と被差別者の溝を深める表現であり、風刺とは視点を俯瞰させることで受け手に自ら批評することを求める表現であるから、表現の文法的にも誤りであるように感じる。

 とはいえ、風刺という表現は表現者自身の当事者性があっては成立しない(主体が含まれないということが重要)ものでもあり、結局この場合シャルリー・エブドがすべきだった“正しい”風刺表現とはなんだったのかということを考え出すのが難しいのも事実だ。実体無き批評者は、当事者になった途端に主体の不在を公に曝け出し、結局は特定のサイドへの攻撃以外の目的を持たないことを明らかにしてしまう。スポットライトの下に映し出されるものが何も無いと知れた時、交渉の可能性は消え去り、言葉無き暴力の応酬が始まるのは道理だ。

 結局のところ、シャルリー・エブドは「風刺とは何か?」そして「暴力は必要だったのか?」と、当事者として立ち、疑問を投げかけるべきだったのではないだろうか。

 

 今回の行動によって、対話の窓が閉じられてしまったように思えてならない。誇り高きフランス人の国民性は好きだけど、それが悪い意味で保守的な方向に転がってしまわないよう、この表現に対するカウンターが適切に行われることを期待して止まない。