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七梨乃手記

……あなたは手記に食い込んだ男の指を一本一本引き剥がすと、頼りない灯りの下それを開いた。@N4yuta

【映画】C・ノーラン『インターステラー』感想(微ネタバレ)

私たちはもはや、私たちのあまりにも豊かな感性について、機械のギブスなしに語ることはできない。


Interstellar Movie - Official Trailer 3 - YouTube

 

 クリストファー・ノーランという人は、流行によって風化しない偉業を成し遂げる人のほとんどがそうであるように、極端なロマンチストである一方で、その極端さと同じ強度でシビアに現実を押さえる。だがそれにも関わらず彼がリアリストでない理由は、その現実的問題の一つ一つを逃さず積み上げた上で、なおロマンチシズムの現実的達成を目指すというところにあり、その仕事をもって、人類になぜ文化というものが必要なのかを証明し続けている。

 つまり、われわれは語りえないものについていかに語るべきか、ということを示すという仕事をしていて、それがいかにしてわれわれの「実務」を繋いでいるのか、ということを表したのが、本作『インターステラー』である。

 

 本作は、「家族」「愛情」をキーワードに、宇宙を舞台としたSF映画の体裁を取る。だがそもそも良き家族とは何か?われわれの中にある何が良き家族を生み出し、それを継続させるのか?そういった問いに明確に答えられるものはまだない。

 この映画では、主人公の家で必ず決まった本が落ちる「幽霊」のいる部屋を皮切りに、超自然的存在に対して、至極真っ当な宇宙探査という手段(本作で用いられた科学にまつわる表現がいかに正しい引用を経たかについては、次の記事を参照されたい――映画「インターステラー」をみる人に届けたい5つの豆知識 )でもってアプローチしていく。

 

“生命の営み”が持つ一定の限界

 改めて語るまでもなく、宇宙空間そのものは人間にとって最も生存からかけ離れた環境であり、その空間の中から地球と同等の生存可能な惑星を見つけ出す科学力は、未だ人類に充分備わっていない。限られたリソースと手段とともに宇宙空間に存在するということは、地球上で持っているあらゆるものを自分から削ぎ落とすことに他ならない。そこには一切の「溜め」がないゆえに、自分の持つもっとも信頼できる知識と経験、そして根本となる信念、思想の強度が試される。そして人間という種が持つ基本的な仕様――われわれはコミュニケーションによって得られる「気力」か、充分に確保された「体力」、あるいはその両方を持たずに、死の恐怖=孤独に耐えることはできないということが明示される。

 

 作中においてある人物は、この死の恐怖こそが人類の想像力の源泉であり、すべての行動の動機であると示唆する。これ自体は素晴らしい指摘のように思えるが、それはノーラン自身によって否定される。『ダークナイト』『インセプション』などで描かれたどん詰まりのループが、この作品においても再び、優れた手管で繰り返し再現される。それは一切の予断を許さず、死の恐怖に対する生存本能というものが単なる衝動であることを表し、それはちょっとした高慢によって躓き、誤った方向へと突撃していくものであると語られる。

 そして大変困ったことに、この失敗を積み重ねることによって、われわれはわれわれ自身の判断能力に疑いを募らせていく。それは解消することのできない疑念であり、われわれは仕方なく、哲学や物語の闇の向こう側へそれを投棄する。つまり自らのいい加減さを無視する以外にそれに対する疑問から逃れる術は無いのだ。

 

 だが、そうして逃げ出すことができない環境にあったとしたら?そこでノーランが持ち出したのが、「ロボット(AIを搭載した機械)」という、人間の倫理観を超えた知的存在である。

 彼らは、少なくともノーランの描いた世界の中においては、作戦の根幹を担うだけの計算能力と、クルーの会話の相手を務めるだけの知能を持ちながら、あくまでも“投棄”可能な道具の一つとして人間社会に受け入れられている。このことがループに行き当たりどん詰まったクルーを幾度となく受け止める緩衝剤となり、次へと繋ぐオルタナティヴな手段(アクションヒーロー的に言えば「プランB」)となって、不測の事態に対して理論のストックを切らした人類の歩みを前に進ませていく。

 そこには「ヒューマンドラマ」が前提として備える人間の能力に対する無批判な信頼など一切なく、人間にとっての愛の価値は人間の存在を肯定するためにあるという考えは、実に丁寧に否定されていく。

 

 そうして一通りの「引き算」が終わったあとで、物語は初めてクルーに選択肢を提示する。そしてその場でメッセージを発したのは、トム・フーパーレ・ミゼラブル』で愛を歌いながらも、貧しさのために娼婦に身をやつして死んでいく母フォンテーヌ役を務めたアン・ハサウェイだった。

 

アン・ハサウェイの起用で時空を超え差し伸べられる『レ・ミゼラブル』への救い

 アン・ハサウェイ演じるブランド博士は、愛は観測し数値化することが可能な概念であり、われわれはそれを追うべきだと説く。われわれは、われわれの持つ知性と科学技術によって、愛を解析できる。それこそがわれわれをこの先に導く鍵なのだと説く。そしてそれは、まさしく文字通りに次元を超えることによって論理的に肯定される。

 敢えて『レ・ミゼラブル』への紐付けがされたなどとは思わないが、愛を歌うフォンテーヌを死なせ、物語に回収することによってその言葉の価値を守ろうとした『レ・ミゼラブル』に対して、『インターステラー』は時間と、それに付随する価値観を乗り越えることで、「物語の中」でもフォンテーヌを生かすことに成功している。人はたとえ作り話の中にあっても、人間にとって最も大切なものを語るために犠牲になる必要などないという意志を感じずにはいられないシーンだし、それはSFという論理性を突き詰めるジャンルならではの説得力をもってしか成し得ないことだったと思う。

 なぜならば、彼女を救ったのは(宣伝に反して)家族ではなく、彼らがコミュニケートするために利用した技術であり、ロジックだったからだ。

 

人工知能との対話は人類の進歩の延長線上に当然に存在している

  『インターステラー』は全篇を通してAIへの信頼を前提に成り立っている物語だ。それはつまり、人類の平均的な想像力が宇宙をより身近なものとしてイメージするに足るものにまで成長してきたことを表し、それと同時に生存本能という抑えがたい衝動が、われわれを一定の境界に縛り付けているという避けようがない課題を浮き彫りにする。本作におけるAIは、感情によってしばしば思考を止めてしまう人間の「バッファ役」として常にそのそばに寄り添い、一瞬たりとも計算の手を止めることなく解法を求め続けることによって、主人公たちに適切なヒントを供給し、人類の希望へと導いている。そして最終的には、AI自身にも定義できない「彼ら」――完全にAIとの融和を果たした人類の発するコードを得る。

 ここには、機械を「使う」という概念は存在しない。むしろある特異点を超えた時点で、本作の世界では機械は「使うもの」という概念が機械は「対話するもの」という概念に変わっているのだ。

 そしてそれは、昨今のAIの進化の道程を振り返れば、きわめて自然な変化であるということがわかる。今やわれわれは、機械との対話を積み重ねることによって、われわれのカバーできない盲点を解析してもらい、論理的にその部分を補強することによって、さまざまな技術的進歩を実現している。ビッグデータはその典型だといえるだろう。今はまだ自分たちの「癖」を読むために機械を利用している段階だが、すでに機械は人間のある一面においてそれを代替する役目を担っている。

 産業革命以降、われわれは記号を扱い、機械によって営みを構築し続けてきた。現代は、いよいよその存在を明確に主張し始めた機械たちに対して、適切な関係を構築するフェイズに差し掛かっている。無暗やたらに人間を全肯定し、「聖人」を作り上げることですべてを人類の枠の中に収める時代は終わった。われわれはわれわれの中の種としての万能感に批判的な目を持って向き合い、機械との距離感について考えなければならない。『インターステラー』に込められた思いはそのようなものだと感じた。そして、そのように説く文化そのものの現代における重要性もまた強く噛み締めた。対話の努力の先にどのようなことが実現可能なのか、その可能性を追うこと、それこそが文化の為せる業であり、人類社会が以後誤ることなくその成熟を進めるための「あたり」として、まさしく必要とされるのがこうした物語なのだ。

 

 たとえ「愛」そのものにわれわれ人類にとっての利用価値がなかったとしても、それを追い、語ることによって得られる恩恵は計り知れない。そのための憑代や道具として、あるいはパートナーとして、機械というものは今日も、われわれのすぐそばに存在している。

 

 この時代にこういう映画を観れて、本当に良かったと思う。