七梨乃手記

……あなたは手記に食い込んだ男の指を一本一本引き剥がすと、頼りない灯りの下それを開いた。@N4yuta

死に方を決めろ "Sons of Anarchy"

 

 

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渋すぎる余韻はほとんど疲弊と見分けがつかない。

 Huluで観られるドラマSons of Anarchy、13話×7シーズンをようやく観終わった。

毎朝起きてから出勤するまでの数十分、帰ってから皿洗い等の家事をしながらの数十分ずつ、ゲームのロード待ち、トイレ等様々なダウンタイムに、PCとWiFi入れたスマホを併用しつつちまちま観続けたが、結局半年ぐらいかかってしまった。

このドラマはアメリカの架空の街"Charming(Joke過ぎて毎回笑う)"を舞台に、主にIRAアイルランド解放戦線)から仕入れたAKやGlock等を捌いて生計を立てているバイカーギャングSons of Anarchy、その総長三代にスポットライトを当てたもので、内は警察は勿論中国人マフィアTriads、クスリが本業の黒人ギャングOne-Niners、血の気の多いメキシカンバイカーMayans等と手を取り合ったり殺しあったりしつつ、外はIRAのほかにもメキシカンカルテルとの取引にも手を出したりして、毎回ほぼ失敗する。このドラマにバカと保身しか考えてないバカしかいないからである。御曹司Jaxの天才的な?計略でなんとか毎回詰みの一歩手前でしのぐのだが、それが結局次の火種を呼んで死人を増やし、完全な詰みに7シーズンかけてひた走っていくというどうしようもないリアル・サグ・ライフドラマなのである。

はっきり言って派手な銃撃戦とかカーチェイスも言うほどないし、それよりも圧倒的に多いのは水面下の同盟/裏切りのやり取りやしょぼい倉庫で嵌められたやつを撃ち殺していたり、「どうしよっか・・・」とMTGしているシーンであって、そうやって地道に積み上げた関係性も結局どれかのバカがブチ切れて血を流すので、「これがリアル三途の川の石積みか・・・」という気分にさせられる。

そこには夢はなく、彼らはスーパーマンではない。食い詰めて犯罪に手を染める一市民として、社会の理不尽に対する忍耐と苦悩、そして繰り返される悲劇の連鎖と深まる後悔を味わい続ける。仕事として悪漢になり、一方で裏社会にも表と同様に存在する組織の上下関係と「自分たちは孫請けで使い捨ての駒に過ぎない」という事実に向き合い、なんとかそれぞれの家庭や生活を守ろうとする様は、イケてるワルへの憧れというよりも、お前も苦労してるな・・・というシブい共感を呼ぶ。

SOAの周囲を固めるメンツも層が厚い。腐敗した署長、ヤク中の元妻、メンバーの一人と添い遂げるMtFフリーランス娼婦、レズものAV女優から成り上がってポルノ監督になった未亡人、等等。キャラが立ってる立ってないとか属性がどうとかそんな次元を軽くぶち抜いた連中ばかりである。しかし、皮肉なことに世界中で理想的な標語として掲げられる「多様性」を本当の意味で受容しているのはこういう底辺層である(少なくとも、隔離という概念がないという意味で)。どいつもこいつも余裕がないので、利益が合致すれば助けるし、信頼ができれば肩を抱く。ある意味で公平な、多様な人間関係の在り方がそこにはある。

 

破滅はひとにぎりの自由

それにしてもどいつもこいつもすぐばれるウソを一生懸命守ろうと頑張るバカばっかで観ていて「お前さあ・・・」ぐらいしか言葉が出てこない、愛すべきバカどもの生きざまである。

配られたカード(ブタ)で必死に"Anarchy"という理想を追い求めるその姿は空虚なあがきでしかない。しかし"生きるためのあがき"ではなく、"よく死ぬためのあがき"として捉えると、彼らが固執するクラブの絆と愛の意味が見えてくる。SOAのエンブレム(タトゥ、ベストの柄として背負う)はM4の形をした鎌を持つReaper(死神)だ。 

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 この死神は、彼らに敵対するものに対しての死神を気取るものではなく、それを背負うメンバーそれぞれが、自らの死を想い、それを決めるという決意の表明だ。

どんなに金のない人間でも、上限いっぱいまで借金をすれば一日だけ贅沢ができるように、生きる選択肢のない追い詰められた人間にも、残りの人生を絞り切れば得られる自由がある。破滅の仕方だけは誰でも選ぶことができる。バカはバカなりにどいつもこいつも忠実である。Anarchyという名の死神が決める掟に従い、それぞれの贖罪を済ませて、その理想に命を投げ出す。彼らは敬虔な死の信徒なのである。

 

星が燃え 太陽が動くことを疑っても

真実が嘘だと疑っても

私の愛は疑うな

シェイクスピア

 

脆い嘘で固めてでも、ひたすらに耐えてでも、人であり続けたかった愛すべきアウトローのドラマである。観ているこちらも他人事と思えないことが、このしょうもない破滅への道が7シーズンも続いて完結したことの秘訣かもしれない。

RIP、RIP。お疲れさん。死の事だけは誰よりもわかっている路傍の賢人たちよ。

ニンテンドースイッチと”アダプタブルゲーミング”の時代

ドンキでスイッチを買うと巨大なロゴが入った真っ赤な袋に入れて渡される上に、横にはドンキのロゴがちょっと控えめに入っていてすごい。

 

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本体は構造的にはほとんどタブレットと言われているNintendo Switch。我が家にもやってきて、実際にHDMIでPCモニタに出力してのプレイ、タブレットモードでのプレイを試してみたが、やはりシームレスにモニタ<>タブレットの切り替えができることに思わず感動してしまった。

TVモードにする際にJoyConを取り外してコントローラにはめるというひと手間があるのだが(逆もまた然り)、左右二対のコントローラが分離してひとつにガッチャンコしたりふたつにまた分かれたりするのがとてつもなく変態技術じみていて、いじっているだけでも楽しい。ここらへんは昔から家庭の中のゲーム機を意識してきた任天堂のおもちゃっぽいデザインが大いに活きているなあと思う。

例によって競合機とはグラフィック方面のスペックで負けているらしく、タブレットモードでは更にそれなりのグラフィックになるわけだが、それでも尚、ここまでのスムーズさでコンシューマーのリッチな体験を”持ち出し”できるようになったことに驚きを隠せない。

一緒に買ったソフトはゼルダだけなのだが、どんな崖でもスタミナが持つ限りはよじ登れる等の割り切った仕様といい、じゃあ地図なんか無視して最短距離で行ってやろうじゃねえかと断崖絶壁を捜し歩くと見事に足場が用意されている手間のかかったレベルデザインといい、日本特有の異常に細かいところまでサービス精神を尽くす感じが遺憾なく発揮されており、散々オープンワールドをやって来た身としても新鮮な気持ちで遊べる良作だ。やはりオープンワールドは莫大な資本と組織力がものをいうジャンルだな、と改めて感じた次第。

 

「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」が実現した“かけ算の遊び” - GAME Watch

 

スイッチが実現したコンセプトの一つ一つは、特に物珍しいものではないし、現状のラインナップを見ても初見でハードコアゲーマーを動かすほどではない。実際自分も買わなかったと思う。今も付き合っている相手のおこぼれでやらせてもらっているだけだ。

個々の要素について、注目すべきポイントは既にそろっている。携帯ゲーム機も据え置き機に匹敵するハードスペックを持つものが出てきている。それに対してソフト側も、インディーズデベロッパの成長により、テイストを選ばなければあらゆるジャンルでそれなり以上のゲームを楽しむ事ができるようになり、ソシャゲを除いても、スマホで楽しむ選択肢が広がってきている。友達と遊ぶということであれば、オンラインでいい。

しかし、スイッチが良いなあと思うのは、それらの各要素の間にあるハードの障壁を壊してくれたところで、これは実際に手に取ってみて初めて気づいた今欲しい要素だった。

実際のところ、Skyrimが動く程度のスペックがあるのなら、グラフィックに感動することは十分に可能だと思っている。PCにおいてはストリーミングや録画をしながら高設定で動く程度のスペックは今時欲しいどころだが、4K出力のために家電から替えるようなモチベーションはまた少し違う欲求だということは、多くのゲーマーにとっては共通の認識だろう。ゲーム体験がそのままマシンスペックと結びつく時代はとうの昔に終わった。今ゲーマーに訴えかける「刺激」とは、レベルデザインであり、ストーリーやロアであり、ナラティブであり、インプットの方法であり、費用対効果であり、それらすべてを含めた「プロダクトの規模感に対しての、相対的なインパクト」に他ならない。

人は何もかもすべてを自由にやらせてくれるオープンワールドが欲しいのではなく、自由を得るきっかけやからくりに触れたいのだ。ゴールドラッシュは金そのものではなく、「つるはしで鉱床を叩く」という刺激によって人を虜にしたはずだ。

 

相対的なインパクトが問題ならば、上限に挑むのではなく、様々な形でコストを下げることもプラスに作用する。スイッチが提示したのは、ゲーム起動までのコスト(手間)の破壊であり、人間同士の「都合」に対して融通を利かせるという、ハード屋としてはまったくもって正論といえるコンセプトだった。

思い付きで”アダプタブルゲーミング”などと名付けてみたが、要はユーザの生活に適応する形でハードが形態をチェンジして、あらゆる生活シーンにおいて一貫したゲームプレイの機会を増やすことで、ゲームの時間が特別な、隔離されたものでなくなっていく、そんなゲーム体験のプロセスの変化が始まっている。

スイッチがインディーズデベロッパとうまいことやって、彼らにとってSteam以上に居心地の良いプラットフォームになるのなら(そして無数にある粗悪品をうまくフィルタできるQAのアイデア任天堂にあるなら)、この変化の旗手になることも不可能ではない。

スイッチがそこまで成長しなかったにしても、あるいはそもそもスイッチが出なかったとしても、この流れ自体は既に出来上がっている。Steamはとっくの昔に同じことに手を付けていたが、残念ながら自前のハード戦略で実現することは叶わなかった。マイクロソフトもOSに無理くりXbox関連機能をぶっこんで来たり、テコ入れを繰り返して少しずつ食い込んできている。ハードの垣根を越えて、そこまで大差のないスペックでゲームを遊び続ける未来は近づいてきている。ゲームソフトの表現も広がっている。AAAタイトルに疲れたら、90分でクリアできるウォーキングシミュレータで箸休めができる時代だ。

スイッチからは離れるが、今ハマっている剣戟アクションforHonorも、クロスプラットフォームによる勢力争いを実装し、PS4/Xboxコントローラ操作とマウス・キーボード操作の両方に見事に対応しており、アナログスティックの操作感になじみ深いプレイヤーはコントローラで、行動ごとにボタンが振られている明快さになじみ深いプレイヤーはキーボードで、「格ゲー」であり「戦略ゲー」であり「チーム戦」である本作を楽しんでいる。それぞれの得手不得手、指向性に合わせたデバイスの選択、ゲーム性の選択ができるようになっていく、この流れはさらに進んでいくだろう。

 

個人的なケースで言えば、うちにはHDMIモニタが一つだけでテレビがないので、PCと据え置きでモニタの取り合いが発生してしまうわけだが、こちらがPCでガッツリやりたい時はスイッチのタブレットモードでプレイしてもらい、逆にこちらが休憩したい時はTVモードで楽しんでもらう(ゼルダは横で見てても飽きない)、というハードの制約や共同生活上の都合にも上手く対応してくれていてとてもありがたい。限られた環境の中でもお互いに満足のいくゲーム体験ができる。ゲームにおいて、”持ち出し”が可能にするシチュエーションは思っていたより多そうだ。

 

個々の生活にアダプタブルに(適応して)関わっていくというプロセスの変化は音楽や映画でとっくに実現したことだが、それらとは違い、この変化はゲームそのものの本質にも影響をおよぼすだろう。

 その時にゲームが持つインタラクティブ性が、どのようなナラティブを生み、どのようなデザインを生み、どのようなサウンドを生むのだろうか?期待は尽きないが、ひとまずスイッチがハードコアなPCゲーの後にベッドで寝転がりながらまったり海外のとれたてインディーズを遊べるようなプラットフォームになってくれることに期待したい。

 

半人前讃歌としてのラ・ラ・ランド

※本エントリにはネタバレを含みます。

 

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完全性を敢えて落としたミュージカル映画が送る「未完成な者たち」へのエール

本作は『セッション』が大騒ぎになったデイミアン・チャゼル監督の二作目で、ミュージカル映画だ。

ミュージカル映画は好き嫌いが分かれやすい。どうしても歌やダンスありきで演技が進行してしまうイメージが強いし、なぜそこで歌いだす/踊りだすのかという理由付けも弱かったりすると、脳がストーリーの解釈を拒むという人もいる。

『ラ・ラ・ランド』は、必要な箇所以外に歌と踊りのパートを入れない、入る時にも直前の演技をしっかりと引っ張ってきて無理にぶった切らない、何より主役の二人がプロ志望のピアニストと女優の卵であることで、ハリウッドに出てきてバイトして暮らしているような情熱に溢れた若者が実際にやりかねない状況で、決して完ぺきではないダンスを始めるという段取りが、むしろ身構えていた心をそばにぐっと引き付ける。作中の音楽にまつわるシーンは、すべてそうせずにはいられない然るべき理由がある―連れ合いよりも魅力的な夜を演出したいがために合わせて踏み始めるステップ、吹き上がるパーティの熱気に取り残されたバラード、想像を実現したいという感情が立ち上がる瞬間。

音楽とメインストーリーが分離しておらず、なぜ生活に音楽が必要なのかが直感的にわかる構成が、次に音楽が始まる瞬間を楽しみにさせてくれる。

 

ストーリーは表現者として行き詰った二人が、ジャンルの垣根を越えてぎこちないながらも情熱という共通点で繋がりあい、互いの課題を解決していく道のりを描く。従来のミュージカル映画の想像を越えて驚かされるのは、このストーリーがまたガチガチにリアルで、ジャズピアニストのセブはマイルス・デイヴィスらを革命児と呼んで崇める割に「その頃のジャズ」にこだわり過ぎて古臭いスタイルから抜け出せない典型的なジャズオタクだし、女優志望のミアはハリウッドのスタジオの中のスタバで働いて、同じく女優志望の仲間とつるみ、熱気に任せていくつもオーディションを受けては落ち続ける一方、妙にスペックの高い彼氏と交際を始めるそつのない一面もあるなど、「ああわかるわ」という感じの二人。

その二人が出会い、セブの「観客なんてクソだ、自分が楽しいと思うことをしろ」という頑固なこだわりがミアの新しい表現方法を開拓し、夢を共有できる運命の相手との出会いによってキャリアを真面目に考え始めたセブが距離を置いていた表現と向き合い、それぞれの成功へ突き進むのだが、その道のりの中で二人が引用するのがトーキーが普及し始めた50年代ハリウッドのミュージカル映画で、その手垢にまみれた感じもこなれてないアマチュアの二人ならではの味がある。

プラネタリウムのデートでは実際に宇宙に飛び出して社交ダンスを始めてしまうような「ベタ過ぎ、やり過ぎ」感も、キャラクターの魅力に結びつくピースの一つ。自分の責任において作品を発表するリスクや不確定性に立ち向かえるのは、そんな向こう見ずな情熱、超越的なエゴイズムでしかない。しかし、往々にしてそれを知るもの同士が完全に結ばれることはない。なぜなら、特に表現においては必ず「たった一人で、全力でやらなければならないこと」があるのであって、互いにその孤独を抱えながら寄り添い続けることは、どちらかが自身の進みを止めなければならないし、そこで止まってしまうと、すべての意味が失われてしまうからだ。二人は進み続けるために必要なことのために結びついたのだし、まさにそれと同じ理由によって別れざるを得ない。

夢はかなうのだが、夢はそれを見るひとりの人の道であって、連れ合いを含むものではない。人がなすことをなせるのは己のなすべきことだけでしかなく、それでも「あの時のフレーズ」に込められた思い出が、すべてを可能にさせてくれるような気にさせてくれる。

 

『ラ・ラ・ランド』が歌や踊りや恋愛を扱いながらもグッとリアルに人を惹きつけてくれるのは、このあたりの現実とのシビアな匙加減が抜群で、登場人物が弱い人間のまま、あるいは未完成な存在のまま道を進んでいくという流れに一切のよどみがないところにある。

特別な人間だけが夢の向こう側にいけるのではなく、必要なのは己が道に誠実であること。ただしそれで全てが手に入るわけではなく、むしろ失うものもある。得るもの、失うものを素直に受け止める主役二人の姿は、浮き沈みの激しい芸能界への疲れを確かに観客にも感じさせる。そんな中、転機となるオーディションでミアは歌う。

 

”おばは私に教えた 少しの狂気が新しい色を見せると

 明日は誰にもわからない だから夢追い人が必要と

 反逆者たちよ さざ波を立てる小石よ

 画家に詩人に役者たちよ

 そして乾杯を 夢見る愚か者に”

 

”自らを奮い立たせることで人をも奮い立たせ、未知への恐怖を吹き飛ばし、世界への呼び声を上げよう!”

「割り切って」生きることができない自分のある種の弱さを受け入れて、ストレートなエールを送る姿は、夢を自分のものとして獲得した瞬間であって、この映画をただの夢物語でなくした瞬間でもあった。

並行世界や巧みな虚実のレイヤード等、現代演劇のエッセンスを交えて提示されるすべての可能性がこの瞬間に収斂していくカタルシスとどうしようもない切なさ。「無責任でないミュージカル映画」という矛盾したようなコンセプトは、ミュージカル映画としてはあり得ないほどビターだが、あり得ないほど親しみ深さと誠実さに溢れていて、最高の傷跡を残してくれる素晴らしい試みだった。

 

チャゼル監督は32歳。夢を見ない世代のエンタテイメントは、直接心に響く勇気の表現を軸にする。浮ついた娯楽が冷めた目で見られる弱りきった時代に、次々と力強い物語が生まれてくる。最近の新作には、こういう思いもよらない方向からの名作がよくあって、良い意味で油断ならない。

売れっ子ジョン・レジェンドを引っ張ってきて「老人にしか聞かれないジャズに何の意味が?」と言わせる徹底具合もニクい。シニシズムニヒリズムを丁寧に潰していく溶けた鉄のような情熱を、ジャンルになじみのない人にこそ是非味わってほしい。「人を選ばない」ということがこの作品の主張そのものでもあるのだから。。。

ソーシャルネットワークの文法

再開

2016年は主に仕事が忙しすぎてろくに何も作れず書けず、こっちの方のモチベーションがなくなったのかなーと自分でも考えるぐらいだったんだけど、書かなきゃ書かないで燻るものがあるし、幸いにも周囲に現在進行形で何かしら作り続けている人がいて、そういう人に会うとやはりやる気が出るもので、アドバイスに従って毎週一回ぐらいのペースでブログエントリをこさえるようにしたいと思って再開した次第。

といってもこれだ!というほどのオピニオンがあるわけでもなく、性格的にも一つのことにこだわりつくすようなタイプではないので、自分が楽しんでやれることを目標にやれればなと。

 

ソーシャルネットワークの文法

翻訳コーディネータ(プロジェクトマネージャー)という仕事をしていると、複数の案件が並行して進む中の進捗を自分で管理して、課題があれば洗い出して改善案を考えて随時仕込んでいくということをするわけだが、我が社もなんだかんだ最先端を謳っても所詮は中小企業なりのガバナンスであり、どうやって効率化していくかっていう結構大事な部分が各自の創意工夫に委ねられているんだけど、今のところ自分はふせんアプリに自分の決めた書式で進捗を直接書き込んでいくっていう原始的な管理をベースになんとかこなしているわけです。

Excelのスケジュール表とか他の選択肢は実際あるし、もうちょいシステマティックにやりたいと思って考えたこともあるけど、結局案件の進行サイクルが早いとささっとメモしてガンガン回した方がよいなとなってしまう。しかしログがトラックしにくいし、レビューの段階でうまくいかないというのが欠点で、そういう意味では某オタキングの記録式ダイエットみたいに、ただただログの検索性にこだわり続けるっていうのは重要なんだろうなと思う今日この頃。

しかし本題はそこではなくて、要はこのブログの書き方とか、仕事におけるものの書き方というのも全部自己流で、現在のスタイルに落ち着くまでにいろいろあったわけです。

 

インターネット日記文化について、テキストサイト時代→mixiの隆盛→twitterの台頭→pixiv/インスタ/Tumblr等サービスの細分化・クロスメディア化という歴史があったよねーというのは皆さんご存知の通りだと思うんですが、個人的にはそのさらに一つ前の「インターネット以前の日記文化」も無視できないところで、「書き物を出す場所としてのインターネット」という枠で考えると、同人誌やペーパーにおけるフリートークスペースという名の著者の雑多なコラムスペースのスタイルとかマインドが確実に今日のインターネット日記文化の背骨になっておるだろ?ということは言っておきたいわけです。

自分の場合、見出しに大体■▼●をつけてアレするとPCでも紙でも見やすいっていうのは同人誌で学んで、長文を書くときのモチベーションというかリズムの取り方は椎名林檎の『丸の内サディスティック』等のエッセイ型の歌詞だったり、『正しい街』の歌い方やブレスを参考にしている。これがヒップホップとかがバックグラウンドだったならもっと切れ目が鋭いんじゃないかなと思ったりする。

 

インターネット日記を書く人というのは大体二種類いて、ひとつは日記を一つの完結したコンテンツと認識している人で、もうひとつは日常のコミュニケーションの発火材(話のタネ)になるような写真や店名等のタグ情報、もしくはバズワードを詰める人で、両者のコミュニケーションのあり方とかコンテンツの扱い方って根本的に違うから、どっちが良い悪いもないんだけど、結局残っていくコンテンツって基本的に個性の強い属人的なスタンドアロンのもので、究極的には個人そのものと言ってもいいようなものだと思うんですよ。顔のないコンテンツはあまり長く生きられない。

何もない白紙にどうやってアテをつけて何を書くのか、どう見出しを書き出して展開していくのか、それは絶壁の登攀のようにかなり個人のパワーが必要なところで、それぞれにスタイルを確立することが求められるところでもある。ニュートラルに、プレーンに書き終えられるということは無いし、むしろその逆の絶対的な偏りが面白さとか価値のポイントになる。

ところが、テキストサイトの飽和に伴って人が「読者」というステータスを手にするようになると、いろいろなものが数値化されて、自分を含む前者の人々が一定の読者数の保証という保険に釣られてmixiとかに囲い込まれていってしまい、結果的にその保証がある種のローンのような形になってその人の個性をガンガン削っていくというようなことがあり、現在はtwitterバズワードが出たらとりあえず祭りにはチョイ乗りしておきつつもその他の場所では自分の好きなことを粛々とやっていくような人がやっぱり一番面白いということになっている。

難しいのは、かつて2chの祭りスレでやっていたことと、自前のサイトとかでやっていたことを今はひとつの場所でやらなきゃいけないということで、それをうまいこと両立している人って本当にすごいんだけど、基本的にできないし、やろうとしない方がいいんだろうね。結局大半の人にとってtwitterって、RSSにコメントがつけられる程度のいっちょかみツールでしかないし、それがマイクロブログって形態の限界なんじゃないかと。

 

感動も感情も反射神経も日々の肉体の老化と共に流れ去っていくものである中、後から見た時に見応えのあるものを作っておくというのは結構大事なことで、人間が異常に肥大化した脳みそのせいで無意味に意味を求めたり知性をもてあます動物である以上、いろいろな手段で白紙に挑む時間というのを持たないと、無駄に他人を攻撃して過ごすようになる。大抵他人に噛みついたり何かしら問題起こしているのって、自分から若さが失われていったりだとか、あるいは今死んだら自分の痕跡は何が残るのかとか、そういうことに対する焦りとか恐怖が根本原因になっていることがほとんどなので。

 

別に何ヒットもしなくても、自分の中に残る表現を考えておくことはセルフメンテナンスの観点からしても大事なことなんだと思う。

でも、根本的にユーザにとってキモチイイものでなければならないという制約上、これから出てくるソーシャルネットワークサービスも基本的にはツールでしかなく、人を満足させる場所にはならないだろう。その裏で、様々なアプローチに合わせた白紙を提供するサービスが細々と生き続けていくはず。

そこに何を書くか、どう書くかは、それぞれが各自でアップデートしていかんとね。

村上隆の五百羅漢図展

我々は、大勢であるがゆえに。

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美術に限らず、あまねく芸術において基本的に必要なものがある。

それは情報量だ。

 

だからといって人はただのゴミの山にいちいち心を動かされるわけではなく、

そこにはあるバランスがなくてはならない。

 

海や山を見たことはあるだろう。

ひとつひとつの要素に意味はなく、ましてや“秩序”なんてどこにもない。

それでも不快に思わないのはなぜか。煩く見えないのはなぜか。

 

重力のためだ。

 

常に揺れ動く波間や、擦れる葉がなす、さんざめく境界線は、重力に引かれて目一杯に張り詰めた、世界の際(きわ)だ。

人はそれを見て、そこに立った自分を発見した時、そのはちきれんばかりに詰まった情報の海の中で、ようやく自分という存在が空ろなものではないのだと気づく。自然なるものの圧倒的な質量を前に、納得する。

ああ、これだけふんだんな世界なら、人間くらいひり出してもおかしくない、と。

 

だから極端な話、芸術や宗教の目的は、

宇宙を解像度高く描き、重力を可視化することであって、

そうすることによって、人を安心させることだといえる。

 

だがそもそも、人はなぜ安心していないのか?

なぜ生の大地では十分でなく、芸術の需要は絶えないのか?

人は何を恐れているのか?

 

重力だ。

 

今にも引き裂かれそうなこの世界は、事実あまりにも簡単にその形を変える。

人間くらい容易く生み出すこの世界は、人間以外のものも生み出し続け、次々と地上へ送り出す。飽和し、変異し、喰い合い、その中には当然、人間を激烈に殺しつくしていくものもある。

人類が「戦争」という言葉を覚えるずっと前から、この溢れんばかりの世界は、殺しあってきたのだ。

 

人が価値ある情報、納得できる意味、揺らがない真理を求めるのは、

そうしなければ奪られる魂があるからだ。

人は魂のイメージを持たずには生きられない。

それを持ち続けるには、意味を喰らい続ける以外にない。

自分たちは重力を操り、自然に勝利し続けているという感覚が、人間には必要だ。

それは揺らいではいけない。

 

だからこそ、芸術には自然を越える情報量と、重力を模した究極のバランスが求められるのだ。

それこそが意味の無意味の意味ではないのか。

 

 輪廻は唸りを上げて世は煌めく地獄を目指す。

 上の動画の3:40あたりに、金銀の箔押しがされた二枚の作品がある。

村上隆のトレードマークともいえる、無数の髑髏がかすかに浮かび上がる中を、書道家の一筆を思わせるような大胆な筆致の丸が走っている。「これは未完成」とうそぶく村上隆の台詞に乗せられるように、観覧客はこぞってこの作品の前に立ち、記念写真を撮る(なんとほぼ全ての作品が撮影OKだった)。

なるほど、五百羅漢図を雑に引用すれば、後光を放つ羅漢に習って「羅漢ごっこ」ができると勘違いしてもおかしくない。

 

だがどうだろう、きらびやかな光の中、円に囲まれて立つその背には無数の髑髏がこちらを睨んでいる。完全なる勝利、永遠の安息を謳う金色も空しく、粒揃いに魂の篭った髑髏の山に抱かれて立つ様は、永遠に解脱の望めない、輪廻に囚われた哀れな獣に見えないだろうか?

 

100万回生きたねこ』を彷彿とさせる、不死性の地獄は見えないか?

たとえカタコンベと脇に書かれていたとしても?

 

見えないのだ。

そこが村上隆の作品のクセでもある。

 

スーパーフラットの時代……国家や宗教によって束ねられていた価値観が解体され、等しく、まばらに、あらゆる情報が漂う時代に芸術は、立てるのか。

東日本大震災によるショックが、五百羅漢図にリアリティを持たせたと彼はいう。現代に更新された新しい説法が必要だと。

実際、彼のやったことは正しく現代の芸術であり、救いの道を見せる、ということをやり切ったと感じた。

 

それは昨今のポップミュージックのような情報の過積載などとうの昔に通り抜けたといわんばかりの、あまりにも執念深い情報量への拘りに見られる。まるで281兆5000億種類のピースでジェンガをやるかのように、敢えて積み、敢えて重ねて、色の組み合わせに破綻を来たさぬよう、一つ一つの際に細心の注意を払う仕事ぶりは、敢えて自らの命を危険に晒し、その状況下で理性を働かせようとする、修験者たちの持つある種の狂気を追い求める姿勢が見える。

 

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製作に大量の学生らを起用して、システマティカルに百人体制で当たったことも一つ。

過去の作家たちは、個のポテンシャルを深めることで、いわば個人の情報密度、ドラゴンボールの戦闘力のようなものを高めることで、クオリティの上昇を図った。

だが一定のバリューを持たせるという点をクリアしたければ、よく統制された集団を動員すれば当然可能だ。

流行を咀嚼し、多面的に解釈して、最後に膨大な力で一点に凝縮させる。多くの若者に「五百羅漢図に関わった」というキャリアを与え、作品には50メートル離れても1ドットの欠けも起こらないような高い解像度が備わる。重ねて、重ねて、輝かせ、並べて、圧して、鏡面加工まですれば当然そうなる。

 

まだ仏教が大いに力を持っていた時代の、固い信仰に裏づけされた物語を骨に、磨き上げられた資本のメカニズムで肉付けを行う。水木しげるの妖怪画のどこか滑稽なキャラクター性とアニメーションの過剰演出も筆の払いに込めて、全ての人の想像を越えるスケールと、緻密さで、大から小まであらゆる神仏羅漢神獣を描き分けてみせ、誰もがそばに立って楽しめる、撮って遊べる、それでいてコモディティ化するでもなく、芸術作品としての存在感は揺らがさない。

仏教の説く真理をクリアに現代に伝え、日本のポップアートを一歩先に進める、少なくともリードする、それらをやり抜いた村上隆の仕事を誰が貶められるだろうか?

 

森美に通うようになって、これまでで間違いなく最高の展示だった。

色の奔流を浴びられたということも、究極の仕事を見ることが できたということも、若い才能の花開くところを感じられたということも、すべてが 望ましく、素晴らしい内容だった。

 だからこそ、殖えるしか手のない生命の空回りする虚しさが確かにあって、この極彩色の軍団は、確かにあの波に、宇宙に対峙するために生み出されたのだろうと感じられた。

既成事実で積み上げた砦は、時の波に耐えられるのだろうか。

時代のアイコンとして観ておくにふさわしい内容だったものの、それが残るかどうかは、

現代同様、これからの十年、二十年が決めることになるだろう。

生み出し続けるしかないのだということを、祝いととるか、呪いととるか、賑わいの中でじっと想わざるを得ず、羅漢たちに挟まれて立ち尽くしていた。

2016/01/10  コンサート『ヴィーナス&エコーズ』

喪に服すとは、時を知るということ。

venus-and-echoes.net

 

 去る1月9日に三鷹市公会堂 光のホールにて開催された有志企画のコンサート『Venus & Echoes』に行ってきた。

 年明け早々に記事に書いたとおり、『ヴィーナス&ブレイブス』というRPGは犠牲を受け入れる物語であり、死を抱き締める物語であり、愛を守り抜く物語だった。

 コアなファンたちが様々な形で語り継いできた流れが、本作品の元監督にして、現在はアーティストとして活躍されている川口忠彦さん(HESOMOGE)の現在の活動をきっかけに収斂し、その熱量が今回のイベントの結実に繋がり、かつては打ち込みだった音楽が、プロの手によって――コンサートマスター河合晃太さんもまた、この作品に魅了された一人だ――一音一音魂を込めて奏でられた。

 少し不思議なのは、このゲームは基本的にランダムに生成された無名のキャラクタたちがプレイヤーにとってのメインのリソースなので、プレイヤー間で大筋のストーリーは共有されていても、「100年間」の細部、その流れ方についてはプレイヤーごとにまったくその内容が違うので、演奏を聴く人々の頭の中にはそれぞれ異なる「過去」がフラッシュバックされていたということ。それぞれがそれぞれの並行世界を持っていて、同じファンでも共有している要素自体は、実はそう多くない。アリア・ブラッドを始めとした“英雄”たちを語ることはできるが、それと同じぐらいの思い入れがそれぞれのもとに訪れた無名のキャラクタたちに対してもあるので、心のうちに抱えた愛に、一つとして同じものはない。

 

 しかし、『ヴィーナス』に関しては今も昔も変わらないことがある。

 私たちは時の流れに涙を流すのだ。

 

 いつか終わってしまう楽しい時間に。無駄に終わった熱意に。省みられない無念に。あまりにも長く続く苦しみに。実体のないぬくもりに。圧倒的な忘却の波がもたらしたものに。

 時は止まるということを知らない。「その時」までに望みが果たされたかどうかとはまったく関係なく、どんどんと次へ進んでいく。「現在」という点から離れれば離れるほどに質量の大きな「忘却の波」に晒されることになり、人は生き続けなければならないためにどこかでその水圧に屈しなければならず、そうして手放されたことは闇の濁流の中で徹底的に漂白されて、いつかなにものでもない、本当のゼロになるだろう。希望はない。絶望もない。それはあることにとっては救いであり、あることにとっては処刑である。

 私たちが私たち自身の命以外のものにできることは、「それがそこにあったことを語ること」ただそれだけで、究極的にいえば、時の流れの中で生きる私たちがすることは「惜しむこと」以外にはない。それを知るからこそ私たちは涙を流し、これ以上奪われることのないように、新たなものをつくり、伝え、残していこうとするのだ。

 

 当たり前だけど、プロの演奏家たちによるオーケストラで再現された音楽は、当時打ち込みで聴いたそれとは解像度がまるで違う。“当事者”が関わっていることも相まって、長い間守られてきた世界観が確かに脈動するのを感じられるほどだったし、十数年という長い月日のなかで失われたものに対する想い以上に、今ここに集っている人たちに対する興味の方が強く湧き上がる。

 

 これを成した人、これを目の当たりにした人は、次に何を創るのか?

 

 この企画を立ち上げた有志の面々のモチベーションの一つには、川口さんがこれまでに開催してきた個展があっただろう。『ヴィーナス』やその他の様々な活動の中で見出したものを個人として突き詰める道を進む「アーティスト・川口忠彦」の精神。青い鳥タロットを始めとした彼の最近の仕事を振り返って改めて思うに、「理想の受肉」ということに頑ななまでに心を砕く古きよき職人的な姿勢と、傑出した美は魂を救うのだという、ある種の絶対的な信仰心のようなものが、フォロワーを集め、モチベートしていくエネルギーを生んでいる。美しき理想をただ愛でるのではなく、それを肉体の動作に還元し、運命に作用させるというプロセスが、鑑賞者の眠っていた望みを呼び起こすのだ。

 はっきり言って、そこまでメジャーにならなかったゲームタイトルのためにプロのコンサート企画を組むのは並大抵の難度ではない。それは一つのプロジェクトであって、関わる人間一人ひとりにプロとしての実務遂行能力が求められる。各人が価値を生むためにやれることを十二分にやらなければ形を保てないということだ。それがこのように無事完了できたこと、それ自体が、この作品が確かに愛されたのだということの証明だし、この作品に流れる精神が求めるものだったと思う。

 

 記録とは、時の流れを自分のものにすることだ。

 それらが積み重なって一つの歴史に束ねられた時、それは「過去」を変え、「現在」を変え、「未来」を塗り替える。多くの可能性が解き放たれ、人生に希望を予感させる。時の流れは膨大だ。だからこそそれを利用できれば、変わるはずがないと思っていたことを変えることができ、起こることを考えもしなかったことを起こすことができる。

 だからこそ、語り継ぐことには意味があり、愛することには意味がある。

 だから今ここに記録しよう。涙あり笑いありの『ヴィーナス』の世界がしっかりと再現された素晴らしい演奏会があったということを、それは「過去」を冠した会だったにも関わらず、集った人の顔は皆前を向いていたということを。

 

 これに関わり、これを成した人すべての、今後の活躍に大きく期待して。

2016/01/01 敢えて再生しないということ 『ヴィーナス&エコーズ』 ;updated 16:10

ヴィーナス&ブレイブス』の世界を描く、初の単独演奏会に寄せて

*16:10 川口忠彦さんから最新のキービジュアルをいただいたため掲載、一部間違った記載があったので修正

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venus-and-echoes.net

 

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 PS2初期の異色なRPGセブン ~モールモースの騎兵隊~』といえば思いだす人もいるだろうか。

 『ヴィーナス&ブレイブス』は、その『セブン』の世界観を継いで2003年に発売したSRPGだ。100年間の滅びの預言を覆すべく、不死者が女神の命のもと、定命の者たちを集めた騎士団とともに世界中を駆けずり回る。

 変化しないのはヒーローとヒロインだけ、あとのもののすべては、友も、時代も、世界の構成すらも移ろってしまう。年を取った団員は子孫を残し、騎士団を去っていくのだし、疲弊した時代は都市の様相をすら変えていってしまうのだ。

 あらかじめストーリーの中に神(=プレイヤー)の視点を織り込んだ入れ子構造を備え、寓話らしい美しいグラフィックの中に、読者は常にファンタジーに「置いていかれてしまう」という哀しみや寂寥感、ひいては老いて時代に取り残されていく生の苦しみを抱えた物語りが強く人の心を惹きつけた名作だった。

 売上的には必ずしもブロックバスターとはいかなかったようだが、それでも全国多くの人が長く覚える作品となり、十代の頃にプレイして今大人になった自分のような人々が集い、今回のような有志のコンサートが開かれるまでとなった。

 こうした展開は監督であった川口忠彦さんですら想像できなかった現象だった。

 このゲームがもともと多くの死を孕む構造であったために、再生の報せともとれるこの動きは尚更強く“元”V&Bプレイヤーの郷愁を誘ったのか、チケットは即日瞬間的に売り切れとなった。誰もが自分の物語りのなかで死んでいった者たちを思い出し、「墓参り」をしたくなったのだろう。

 

 再生といえば、ここ最近はFF旧作などをはじめとしたスマートフォン向けの再移植・リメイク等が相次いでいる。つい最近もFF9のPC/スマホ向け移植が発表されたばかりだ。まさしく20代・30代~の、昔ほど時間は取れないけれどスマホでちょっとしたスキマ時間を埋めたい人々にとっては、当時やれなかったゲームに改めて触れる機会の到来でもあるし、既にプレイしたものであっても、古びたアルバムをめくるように懐かしみ楽しむこともできる。それは確かに良い流れだ。PS~PS2の、まだ国産ゲームに力があり、バリエーションに富んでいた頃のストーリーは、何度でも改めて語られるべきものがいくつもある。

 その流れに乗って、『ヴィーナス』も高らかに再生を叫んでも良いし、実際その素晴らしいシンプルでソリッドなシステムは今でも十分プレイに耐える。

 

 だが、『V&E』で掲げられたテーマはそうではなかった。

 それはあくまでも戦いの“残響”だった。

 

 演奏会のポスターに描かれた都市の残骸の風景は、そこが復興しなかったことを意味する。

 だがそこには人が訪れ、御参りをし、鳥が飛び、全景は豊かな大地の息吹の中に抱かれている。苔生してはいるが、忘れ去られたわけではない。しかし、物語りは確かに終わり、人々は死んだ。死と輪廻を主題に扱うゲームだったからこそ、安易に「再生」するわけにはいかない。そこに『ヴィーナス』の哲学があり、命を語ることに対する礼節がある。

 

 命あるものがいつか必ず死ぬために、英雄譚には黄金の不死が求められる。

 彼らは何度でも蘇り、何度でも戦い、何度でも勝つだろう。

 無限のループのなかで無限の勝利を収め、そのために飽きられて、新たな英雄譚に取って代わられるだろう。

 そして忘却の海の中で、英雄たちは死ぬこともできず、ただただその状態を「保留」されたまま、無限の再生を続けることになる。

 不死者が生に飽きて死を求めるという陳腐な展開を誰もが知っているように、黄金の英雄は、当事者にとっては地獄であることを、実は、誰もが知っている。

 だから、実際のところ、誰も英雄を身近に置きたがらない。誰も英雄を、当事者としては「愛し」たくない。ただ「崇拝」したがるだけだ。

 

 だが、物語を愛するのなら――あるいは人や命を愛するのなら――その終わりを看取ること、最期まで観測することを避けることはできない。

 私たちは自分が愛するものとともに老い、その死を看取って、心に小さな墓石を持ち、それを宝石のように後生大事に抱えて生きていかねばならず、その様は傍目から見れば間抜けかもしれないが、実はそれらが移ろい行く時代の流れに流されない数少ないよりしろでもあるのだ。

 

 だから、『ヴィーナス』は蘇らない。

 ただその音色を知っている人が時折ひそかに奏でて、過ぎ去っていった命や物語に対して、鎮魂と感謝を捧げるのみ。

 愛され、死を看取られるものは、虚実を問わず幸福な存在といえるだろう。

 それはいつかまったく違う形で、新しいアイデアと共に生まれ変わるだろう。

 『ヴィーナス&ブレイブス』がこの期に及んで流行して欲しいなどとは思わない。

 しかしその物語りのなかに込められた満身の愛と目の前の生命への祈りは、人の道として何がしかの形で引き継がれなければならないと思う。

 

 あなたは英雄の愛し方を知っているか?