七梨乃手記

……あなたは手記に食い込んだ男の指を一本一本引き剥がすと、頼りない灯りの下それを開いた。@N4yuta

2016/01/10  コンサート『ヴィーナス&エコーズ』

喪に服すとは、時を知るということ。

venus-and-echoes.net

 

 去る1月9日に三鷹市公会堂 光のホールにて開催された有志企画のコンサート『Venus & Echoes』に行ってきた。

 年明け早々に記事に書いたとおり、『ヴィーナス&ブレイブス』というRPGは犠牲を受け入れる物語であり、死を抱き締める物語であり、愛を守り抜く物語だった。

 コアなファンたちが様々な形で語り継いできた流れが、本作品の元監督にして、現在はアーティストとして活躍されている川口忠彦さん(HESOMOGE)の現在の活動をきっかけに収斂し、その熱量が今回のイベントの結実に繋がり、かつては打ち込みだった音楽が、プロの手によって――コンサートマスター河合晃太さんもまた、この作品に魅了された一人だ――一音一音魂を込めて奏でられた。

 少し不思議なのは、このゲームは基本的にランダムに生成された無名のキャラクタたちがプレイヤーにとってのメインのリソースなので、プレイヤー間で大筋のストーリーは共有されていても、「100年間」の細部、その流れ方についてはプレイヤーごとにまったくその内容が違うので、演奏を聴く人々の頭の中にはそれぞれ異なる「過去」がフラッシュバックされていたということ。それぞれがそれぞれの並行世界を持っていて、同じファンでも共有している要素自体は、実はそう多くない。アリア・ブラッドを始めとした“英雄”たちを語ることはできるが、それと同じぐらいの思い入れがそれぞれのもとに訪れた無名のキャラクタたちに対してもあるので、心のうちに抱えた愛に、一つとして同じものはない。

 

 しかし、『ヴィーナス』に関しては今も昔も変わらないことがある。

 私たちは時の流れに涙を流すのだ。

 

 いつか終わってしまう楽しい時間に。無駄に終わった熱意に。省みられない無念に。あまりにも長く続く苦しみに。実体のないぬくもりに。圧倒的な忘却の波がもたらしたものに。

 時は止まるということを知らない。「その時」までに望みが果たされたかどうかとはまったく関係なく、どんどんと次へ進んでいく。「現在」という点から離れれば離れるほどに質量の大きな「忘却の波」に晒されることになり、人は生き続けなければならないためにどこかでその水圧に屈しなければならず、そうして手放されたことは闇の濁流の中で徹底的に漂白されて、いつかなにものでもない、本当のゼロになるだろう。希望はない。絶望もない。それはあることにとっては救いであり、あることにとっては処刑である。

 私たちが私たち自身の命以外のものにできることは、「それがそこにあったことを語ること」ただそれだけで、究極的にいえば、時の流れの中で生きる私たちがすることは「惜しむこと」以外にはない。それを知るからこそ私たちは涙を流し、これ以上奪われることのないように、新たなものをつくり、伝え、残していこうとするのだ。

 

 当たり前だけど、プロの演奏家たちによるオーケストラで再現された音楽は、当時打ち込みで聴いたそれとは解像度がまるで違う。“当事者”が関わっていることも相まって、長い間守られてきた世界観が確かに脈動するのを感じられるほどだったし、十数年という長い月日のなかで失われたものに対する想い以上に、今ここに集っている人たちに対する興味の方が強く湧き上がる。

 

 これを成した人、これを目の当たりにした人は、次に何を創るのか?

 

 この企画を立ち上げた有志の面々のモチベーションの一つには、川口さんがこれまでに開催してきた個展があっただろう。『ヴィーナス』やその他の様々な活動の中で見出したものを個人として突き詰める道を進む「アーティスト・川口忠彦」の精神。青い鳥タロットを始めとした彼の最近の仕事を振り返って改めて思うに、「理想の受肉」ということに頑ななまでに心を砕く古きよき職人的な姿勢と、傑出した美は魂を救うのだという、ある種の絶対的な信仰心のようなものが、フォロワーを集め、モチベートしていくエネルギーを生んでいる。美しき理想をただ愛でるのではなく、それを肉体の動作に還元し、運命に作用させるというプロセスが、鑑賞者の眠っていた望みを呼び起こすのだ。

 はっきり言って、そこまでメジャーにならなかったゲームタイトルのためにプロのコンサート企画を組むのは並大抵の難度ではない。それは一つのプロジェクトであって、関わる人間一人ひとりにプロとしての実務遂行能力が求められる。各人が価値を生むためにやれることを十二分にやらなければ形を保てないということだ。それがこのように無事完了できたこと、それ自体が、この作品が確かに愛されたのだということの証明だし、この作品に流れる精神が求めるものだったと思う。

 

 記録とは、時の流れを自分のものにすることだ。

 それらが積み重なって一つの歴史に束ねられた時、それは「過去」を変え、「現在」を変え、「未来」を塗り替える。多くの可能性が解き放たれ、人生に希望を予感させる。時の流れは膨大だ。だからこそそれを利用できれば、変わるはずがないと思っていたことを変えることができ、起こることを考えもしなかったことを起こすことができる。

 だからこそ、語り継ぐことには意味があり、愛することには意味がある。

 だから今ここに記録しよう。涙あり笑いありの『ヴィーナス』の世界がしっかりと再現された素晴らしい演奏会があったということを、それは「過去」を冠した会だったにも関わらず、集った人の顔は皆前を向いていたということを。

 

 これに関わり、これを成した人すべての、今後の活躍に大きく期待して。

2016/01/01 敢えて再生しないということ 『ヴィーナス&エコーズ』 ;updated 16:10

ヴィーナス&ブレイブス』の世界を描く、初の単独演奏会に寄せて

*16:10 川口忠彦さんから最新のキービジュアルをいただいたため掲載、一部間違った記載があったので修正

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 PS2初期の異色なRPGセブン ~モールモースの騎兵隊~』といえば思いだす人もいるだろうか。

 『ヴィーナス&ブレイブス』は、その『セブン』の世界観を継いで2003年に発売したSRPGだ。100年間の滅びの預言を覆すべく、不死者が女神の命のもと、定命の者たちを集めた騎士団とともに世界中を駆けずり回る。

 変化しないのはヒーローとヒロインだけ、あとのもののすべては、友も、時代も、世界の構成すらも移ろってしまう。年を取った団員は子孫を残し、騎士団を去っていくのだし、疲弊した時代は都市の様相をすら変えていってしまうのだ。

 あらかじめストーリーの中に神(=プレイヤー)の視点を織り込んだ入れ子構造を備え、寓話らしい美しいグラフィックの中に、読者は常にファンタジーに「置いていかれてしまう」という哀しみや寂寥感、ひいては老いて時代に取り残されていく生の苦しみを抱えた物語りが強く人の心を惹きつけた名作だった。

 売上的には必ずしもブロックバスターとはいかなかったようだが、それでも全国多くの人が長く覚える作品となり、十代の頃にプレイして今大人になった自分のような人々が集い、今回のような有志のコンサートが開かれるまでとなった。

 こうした展開は監督であった川口忠彦さんですら想像できなかった現象だった。

 このゲームがもともと多くの死を孕む構造であったために、再生の報せともとれるこの動きは尚更強く“元”V&Bプレイヤーの郷愁を誘ったのか、チケットは即日瞬間的に売り切れとなった。誰もが自分の物語りのなかで死んでいった者たちを思い出し、「墓参り」をしたくなったのだろう。

 

 再生といえば、ここ最近はFF旧作などをはじめとしたスマートフォン向けの再移植・リメイク等が相次いでいる。つい最近もFF9のPC/スマホ向け移植が発表されたばかりだ。まさしく20代・30代~の、昔ほど時間は取れないけれどスマホでちょっとしたスキマ時間を埋めたい人々にとっては、当時やれなかったゲームに改めて触れる機会の到来でもあるし、既にプレイしたものであっても、古びたアルバムをめくるように懐かしみ楽しむこともできる。それは確かに良い流れだ。PS~PS2の、まだ国産ゲームに力があり、バリエーションに富んでいた頃のストーリーは、何度でも改めて語られるべきものがいくつもある。

 その流れに乗って、『ヴィーナス』も高らかに再生を叫んでも良いし、実際その素晴らしいシンプルでソリッドなシステムは今でも十分プレイに耐える。

 

 だが、『V&E』で掲げられたテーマはそうではなかった。

 それはあくまでも戦いの“残響”だった。

 

 演奏会のポスターに描かれた都市の残骸の風景は、そこが復興しなかったことを意味する。

 だがそこには人が訪れ、御参りをし、鳥が飛び、全景は豊かな大地の息吹の中に抱かれている。苔生してはいるが、忘れ去られたわけではない。しかし、物語りは確かに終わり、人々は死んだ。死と輪廻を主題に扱うゲームだったからこそ、安易に「再生」するわけにはいかない。そこに『ヴィーナス』の哲学があり、命を語ることに対する礼節がある。

 

 命あるものがいつか必ず死ぬために、英雄譚には黄金の不死が求められる。

 彼らは何度でも蘇り、何度でも戦い、何度でも勝つだろう。

 無限のループのなかで無限の勝利を収め、そのために飽きられて、新たな英雄譚に取って代わられるだろう。

 そして忘却の海の中で、英雄たちは死ぬこともできず、ただただその状態を「保留」されたまま、無限の再生を続けることになる。

 不死者が生に飽きて死を求めるという陳腐な展開を誰もが知っているように、黄金の英雄は、当事者にとっては地獄であることを、実は、誰もが知っている。

 だから、実際のところ、誰も英雄を身近に置きたがらない。誰も英雄を、当事者としては「愛し」たくない。ただ「崇拝」したがるだけだ。

 

 だが、物語を愛するのなら――あるいは人や命を愛するのなら――その終わりを看取ること、最期まで観測することを避けることはできない。

 私たちは自分が愛するものとともに老い、その死を看取って、心に小さな墓石を持ち、それを宝石のように後生大事に抱えて生きていかねばならず、その様は傍目から見れば間抜けかもしれないが、実はそれらが移ろい行く時代の流れに流されない数少ないよりしろでもあるのだ。

 

 だから、『ヴィーナス』は蘇らない。

 ただその音色を知っている人が時折ひそかに奏でて、過ぎ去っていった命や物語に対して、鎮魂と感謝を捧げるのみ。

 愛され、死を看取られるものは、虚実を問わず幸福な存在といえるだろう。

 それはいつかまったく違う形で、新しいアイデアと共に生まれ変わるだろう。

 『ヴィーナス&ブレイブス』がこの期に及んで流行して欲しいなどとは思わない。

 しかしその物語りのなかに込められた満身の愛と目の前の生命への祈りは、人の道として何がしかの形で引き継がれなければならないと思う。

 

 あなたは英雄の愛し方を知っているか?

2015/12/31 緊急避難の終わり

夢を叶えるのと夢を見るのは同時にできないようで

 今年は一番良い年でもあったし、一番拙い年でもあった。

 年始から七転八倒しつつ取り組んできた転職活動が実を結び、理想としていた行き先の一つ、翻訳の世界に潜り込めたのはかなり大きい。そこから先、国境に縛られない人生へ進むに当たって、考えられる中で一番ベストな位置に入り込めたと思う。ここでこれからする努力がもたらす成果にはそれなり以上に期待が持てる。

 そもそもほとんど独学&洋ゲーで身につけたスキルが職に繋がるということ自体が痛快だし、腰を据えてかかる気になる仕事をようやく得たことにも安心感がある。

 

 

 これで長い緊急避難が完全に終わったのだと思う。

 

 

 やむにやまれずで続けてきた間に合わせの仕事ともおさらばし、使い道もないままただ持ってきたものはそれなりに捨てたし、ヤケクソになる理由がなくなったのだ。今の自分には「基盤」があるし、そこから何をどうマネージしていくかという考え方に移っている。未だ安定からは程遠いが、少なくとも公私共にこなすべきことは日単位で観えているし、毎日調整していく余裕もある。

 もっとも、長い転職活動にリソースの大半を割かれた後、新しい環境に合わせているうちにもう一年が終わってしまったという感じがあって、長期的には良くても、短期的にはほとんど中身のあることができなかったという気がする。

 

 創作方面では、今年『僕に間に合え』を刊行できたのはとても大きかった。これはde-part.jpの白倉さんの進行があったればこそだったし、ほとんど息も絶え絶えにひねり出した(結構いいものができたと思う)。

 それでも、美術やファンタジーや創作に対して今年は本当にリソースを割けなかったし、今後そうする気になるのかどうかも実際怪しい。それが一番拙いところだ。

 もちろん今森美でやっている村上隆を逃す手はないし、来年からはどんどんまた観ていく予定だけど、そこからさらに奥に進む余裕はあるのか?

 

 

 これまでは「緊急避難」で、魂の安息だけ考えていればよかった。今は「生活」があるから、こっちを形にするために踏ん張らなければならない。

 「幸せな生活」がいかに脆くて得がたいものかを自分はよく知っているから。

 ただ、それと思索を深めること、道を探求することは別のことで、そこをおざなりにしても人生は成り立たない。

 どのような形で理想を実現すればいいのか?

 自由を手に入れる手がかりは得た。でもその先の理想がないと、意味はない。

 突き抜けるほど何かに執着できない自分、そうせざるを得なかった人生にも、悔しさが滲む。

 

 

 雌伏のときは早く終えて、外に飛び出したい。

 来年がそんな一年になりますように。

TOKYO ART BOOK FAIRに出展します・1~出展作品について

『僕に間に合え』、9/19~21、C-33「de-part.jp」ブースにて販売。

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京都造形大学・東北芸術工科大学外苑キャンパスにて行われるTOKYO ART BOOK FAIR'15に出展できることになりました。

de-part.jpの白倉良晃さんが企画・デザインされた特殊製本にテキストを提供する形で、ショートストーリーを書かせて頂きました。

 

あらすじ

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『0時42分に、間に合うこと

        間に合わせること』

 

 多忙を極め、終電を追うばかりの生活を送っていた「僕」。

ある夜、一瞬の隙に気を取られている間に終電を逃してしまい、

寝静まった夜の街に独り、置き去りにされてしまう。

余りにも頼りない導きに従って当て所なく夜を彷徨う「僕」の頭の中に、

かつての「君」の声が去来する。

 

『人にとっての最高速度は、
  その人の歩く速さだから。
  その先はもう掴めないから』

 

交錯する時、記憶、想像、感情。

身体は一つしかない。でもその中にあるものまで一つとは限らない。

 

食べても食べても満たされないぼそぼそのスポンジケーキみたいな昼の言葉たちは全部暗闇に萎んでしまって、看板も標識も埋まって、それは僕らもそうで、何かを表すだけの言葉は意味がないから、僕は君の、君は僕の言うことをつないだ。それがすべての最小単位で、僕らはいつでもそこから始めて、何でも手に入れたし、どこにでも行けた。 

 

「僕」は思い出したのか。

    忘れたのか。

「君」はいなくなったのか。

    やってくるのか。

 

溢れだす時間は零れ落ちる時間となって、どんどんと喪われていく。

間に合わせだらけの世界で、「僕」は間に合うのか。

答えは時刻表の裏側に書かれた時間だけが知っている。

 

特殊製本「いいかげん折り」で作られた掌編小説 

『僕に間に合え』は、極めて珍しい特殊製本で有名な製本工場、(有)篠原紙工 様の製本モデル「いいかげん折り」を使用しており、薄口のブルーの紙に両面二色で、黒や白を一切使わず、街灯に照らされた闇夜や白み始めた早朝の空気を表現しています。

 

言葉の虚しくなる時間に滲み出る想像の世界が、ページをめくるごとにだんだんと(文字通りに!)広がっていき、一人歩きしていた言葉は何かに出逢い、織り上がっていきます。

 

ページごとに少しずつズレがあり、書かれた内容が“漏れ出す”この製本モデルは、主にリーフレットなどに使われていたようで、小説本としてのいいかげん折りのサンプルは、『デザインのひきだし』14号の付録ぐらいでしょうか。『僕に間に合え』は背綴じをしていないので、見た目は折りたたんだ一枚の紙なのですが、しかし、本です。

嬉しいことに、本作は篠原紙工様でも「いいかげん折り」のサンプルとしてご利用いただけるとのことです!光栄です!

 

この本で実現したかったこと。

それは紙の本の「道具」としての気持ち良さ……手繰ること、紐解くことの面白さをきちんと形にするということと、この言葉がどこまでも細切れに拡散していく現代で、その欠片を取り戻すことの意味を表すということです。

言葉は本来、常にイメージと寄り添っています。

言葉は、他人に自分のイメージを影絵のように投影するための“型”に過ぎないのです。

それを忘れた時、人の想像力は急速に渦を巻いて社会に飲み込まれてしまう。

それでも、隙を見つけては滲み出る。

それが想像力の強さなのだと思います。

 

『僕に間に合え』は一部500円で販売します。

七梨乃那由多は会場には行けませんが、何卒よろしくお願いいたします!

2015/08/17 あんびるはるか展『おそれ』について

それは食べることができます。

 

 最近展示の感想はツイートで済むことが多いし、取り立ててブログに書くようなことも無いので書かなかったが、今日の展示の感想はなんとなく家に持ち帰らないとうまくいかない気がした。

 

soundcloud.com

 

 現在はhjarta(イエルタ)名義で音楽活動をしつつ、絵画の発表もされているあんびるはるかさん。昨年HESOMOGEさんの個展でライブを拝見したのをきっかけに、展示にも伺い、その縁で今回の展示の招待を頂いたので、明大前のブックカフェ槐多にお邪魔してきた。

 

 

 あんびるさんの絵は猛烈に歪んでいて、歪んでいるにも関わらず、何かすとんと腹落ちするような安心感がある。あってはいけないものがあり得てしまっている現実を認めて立っているような佇まいは、何かを想像するということは、本当は新しい幻想を作り出すとかいうことではなく、ただかろうじてこの肉体の中に収まっている矛盾を、そのまま表出しているにすぎないと語りかけるかのようだ。

 それは言ってみれば偉大なことではないし、特別なことでもない。言葉を持った時点で理性と本能とに引き裂かれる定めの動物である人間が、かくも理性“的”に振る舞えていること自体が、まぁ奇跡的なことなのだ。自らを縛り上げ、歪まないことには、人が“佇む”ことなどできない。

 

 ご本人曰く、描き始めたきっかけは嫌悪感だったという 。

 それでもそうしてできた絵は何故か自分が好きなものになり、結果的に展示は自分の好きなものに囲まれるような状態になったそうな。

 自分の心を引きずり回す嫌なことが溶けていき、人になんと言われても構わないと言えるほどの確信を持って愛せる絵だけが遺った。それを聞いて、やはりマリオ バルガス=リョサを想わずにはいられない。即ち、人が何かを作ることや、表現することで得られるものは、そのために自分自身を喪うということなのだ。

  それは、例えば猛毒を持つフグを調理しておいしく食べてしまうように、自らの中に生まれた「おそれ」を取り込んで、ものにしてしまうということ。食べられるところ、食べたいところをより分けて、食べたいだけ食べる。それは歪なことだろうか?それはわがままなことだろうか?

 

 

 我々はただそこにいるだけで欠け続ける。何かを絶えず取り込まないことには生きていけない。

 愛すべき醜悪「だった」もの。

  あんびるはるかさんの絵の中には、曇天を根こそぎ持っていく台風のような、荒々しくも清々しい“渦”がうねり、観る人の心のもやをも巻き込んで、ソフトクリームのようにしてしまう。

 

 

 それは食べることができます。

 おいしく。

2015/03/20 私は失うことを得た

youtu.be

空虚という実感。

 童貞女子とかいう新しいクソステータスが出てきて、cakesでこの連載が更新されるたびに開いては「クソだな……」と毒づく日々が続いているわけだが、弱者利権というのは確かに、ある。

 

 “なれるかも知れないわたし”を質に入れることで借りられるエネルギーというのはあり、それでも正気を経営していくことはできる。

 問題は、“なれるかも知れないわたし”もまた一人の人間であり、なれるかも知れないがために、勝手に戻ってくる可能性があるということだ。

 その場合には、それまで借りたエネルギーを返済する必要に迫られる。

 完済もできず、夜逃げもできなければ、“意義”を差し押さえられる。

 空虚であることもそのまま掲げ続ければコンテンツになって利益を上げるこの時代、己のリアルを抱えることは、見方によっては負債を抱えるということにもなり得る。

 もっとも、自分は結局希望を求めているのか絶望を求めているのかと聞かれて後者と答えられる人間は口を開く前にもう死んでいる。それでも態々リアルを細かく投げ捨ててみるものがいるのは、単純に酔いたくなっただけのことだ。勝てもしないギャンブルに金を使って安酒を呷り暴れているのと変わらない。

 

 生憎、未来に胸を高鳴らせることができるような、“予兆”を楽しむことのできる人間を見逃したままでいられるほど、人の目は腐っていない。いつか必ず見出されるだろう。ヘンリー・ダーガーですら逃げ切れなかったのだから。

 問題は、借り物のエネルギーで取り寄せた“意義”を、自力で買い戻す生産能力を持っているか、ということだ。

 殉教者と伝道者では生き方が違う。

 メディアに求められるのは自意識の排除だが、エキスパートに求められるのはむしろ、自分とその対象がいかにして「関係している」か、ということだ。

 

 リアルなやりとりは、あくまでも語りかけることによって進行する。

 そうしてわたしたちは、得ることを得て、失うことを得る。

 利益も損失も、邂逅も別離も、すべてが“獲得したもの”であって、それを認知して初めて、わたしたちは何かを生産することを始められる。

 手を合わせるのではなく、握りに行くことができれば、いつか夢たちの一人と友達になることもできるだろう。

 そして「手の温もりはちゃんと知っていた」のなら、それがやはり一番のことなのだ。

 

 それは自分を貶めない。

 貶めるようなことにならないために、わたしたちは無駄に未来を予感する感覚を持っているのだと思う。

 そんなわけで、なんでも自分ごとと思って考えてみる練習が自分にも必要だよなあ、と考える今日この頃。

狂気は陶酔によって最適化され、現実に適用される――橋本治『恋愛論』について

“カップリングは「世界なんか私とあなたでやめればいい」。やめてからもっかい作ればいいのだよ。”

狂わせ、狂う能力はあるか 橋下治『恋愛論』感想文 - (チェコ好き)の日記

 

 冒頭の見出しは川上未映子の言。

 

 Skype読書会?の流れで、二村ヒトシ『すべてはモテるためである』と、橋本治『恋愛論』への言及を観測した。今回はid:aniram-czech氏が新たに取り上げられている『恋愛論』の方に乗ってみる。いずれもcakesで紹介されていて、自分もそこでこの名著を発見した。

 


恋愛論(橋本治)前編|新しい「古典」を読む|finalvent|cakes(ケイクス)

 

 『恋愛論』がすべての人間に一読をおすすめできる理由は、橋本治というひとが独り、本書の下敷きとなった同名の講演の始めから終わりまで、恋愛の実存を否定し続けたことにある。彼はそのために壇上で自らに呆れ、泣きすらするが、それでも彼はあくまでも自律して現実に作用してくる第三者的な「恋心」の存在を丁寧に否定し続けた。

 上記finalvent氏の書評では、そのようにして自ら意味を削ぎ落としていく中でどうしても滲み出てしまう感情、心の反動を観衆に見せていくライヴ感が評価されているが、まったくそのようにして、言葉によっては定義され得ない恋愛というものの実在を語ろうとしているわけだ。

 

 まず、16ページでいきなりこんな文句が飛び出してくるわけで。

 

 この世には結婚というものはあって、そのことはとっても確固として存在していて、それのお余り、そこに行く途中のお目こぼしとして“それを恋愛として享受する自由”とか“楽しい交際”っていうものがあるっていうことですよね。つまり、この世には恋愛というものが存在する余地、恋愛というものを受け入れる余地っていうものはないんですね。このことをしっかり頭に叩き込んどいた方がいいと思いますね。

恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂) p16

 

  恋はするもの?落ちるもの?だとかいう問い以前に、「恋なんて無いのだ」と言い放ってしまう橋本。本書では極めてシステマティックに、この世界における恋愛の立ち位置について分析と検討が繰り広げられるわけだが、それは「『現代社会において』恋愛というのはどのあたりの立ち位置にあるのか」とか、「打算的である方が良いのか、情緒的である方が良いのか」とかいった次元をさくっと乗り越えて展開されていく。

 橋本治というひとは、本人も何度も言っているが、自らの我の強さを明確に自覚し、それを強みとして押し出していくことにためらいのないひとで、自然、人生を語るスタンスにしても徹底した実存主義というか、とにもかくにも世界には「自分」が最初にあって、「自分」には現実と向かい合って解決していかなければならない課題があり、それは何かって、要するに「自分」に足りないものをどんどん取り入れていくという、それがすべてだという考えのひとなので、恋に落ちているという状態について、とにかくそれはモラトリアム、まったくの空白期間なのだと語る。そしてその空白とは、つまるところ自分が次のステージへ移っていくための緩衝剤であって、箱に詰める丸めた新聞やビニールのクッションのように使われるものなのだと定義するのだ。

 

 要するに、他人の美点を取り入れる努力もしたいが、しかしそれはメンドクサイ。メンドクサイ上に、そんなことをしたら、このどうしようもない自分にもやっぱり備わっている“自分の美点”というものを失ってしまう。そんなメンドクサイ、しかも収拾のつかない矛盾のようなものを突っつき回していてもしょうがない、サイワイ、自分の中には“恋愛感情”という便利なものがあるではないか。今までこれがどういう使われ方をするものであるのかよく分からなかったが、なるほど、遂にここへ来てこの不思議なものの利用法が分かって来たぞ、分かって来たような気がするぞ――

恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂) p94

 

  橋本治にとって、恋愛とは緊急避難なのだ。

 この世界に生まれ落ちて、自分を構築していくなか、独力ではうまくいかない気分になり、どこか手詰まりを感じる……そんなある地点における「成熟」を迎えたときに、眼前に飛び越えなければならない(が、あまりにも大きな)クレバスが見えてきて、その向こうに「誰か」が立っていることを発見し、そこからモーレツに恋というものは始まっていく。この“感性的な成熟”、橋本がいうところの“陶酔能力がある”とはまさにそのことを言っている。要は、「自分を愛せなきゃ人も愛せない」わけだけど、その自分はやっぱり自分で作るしかない、土台を作ってその上に立った時に、初めて他者というものが見えてくるのだ、ということ。

 

 ではその後恋愛はどのように推移していくのか?

  橋本は、恋をするとは、目指すべき“陸地”と自分との間にあるクレバスに猛然と「妄想を投棄」し、埋め立て地を作ることで繋ぎとめていく作業であると説く。

 

 恋愛っていうのは、自分ていう海の中の離れ小島と“陸地”っていうものの間を、妄想というものをドンドン捨てて行って埋め立てて行くことによってつなぎとめる作業だと思うの。妄想がドンドン捨てられていくから、恋っていうのは、ちゃんと終るんだよね。そして、その埋め立てられて、ちょっとずつ陸地が現われて来る、その状態のことを“幸福”って呼ぶんだよね。 

(中略) 

 恋愛が結婚に続いていくっていう考えでいけば、その離れ小島と地続きになる陸地は“結婚”でしょうよっていうのもあるけど、僕の場合は、実は違うのね。これから先はどうか分かんないけど、今までのところで行けば、離れ小島と地続きになって行く陸地っていうのは、実は“自分”なのね。

 恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂) p127-128

 

   もともと離れ小島だった自分が繋がった先にある陸地もまた自分というのは、一体どういうことなのか。それは、妄想の中の自分が考えていたものとは全く違う、より明確で、強固で、安易なものでない現実、つまり「幸福な自分」との出会いなのだという。それは「理想の自分」ではないが、自由であり、確固たる自分という土台に足をつけた人間であるのだという。

 なんと冷たく、心を打つ考えだろうか。

 

 橋本は、しかし、同時に“幸福感”という欺瞞を持ってはいけないと警告する。

 現に存在している「幸福な自分」と、恋愛において用いられる妄想の中に練りこまれた“幸福感”を一つにしてはならない、と説く。妄想はあくまでも投棄されなければならず、それを使ってレンガの家を建てても、結局それは牢獄にしかならない。妄想には、現実を生むものと、ただ霧消していくものの二種類があり、それは外気に触れさせることでしか明らかにならないのだ。

 

 本書は橋本個人の恋愛体験をベースに語られるものであり、ご本人の性格も相まってそれなりにアクの強い内容ではあるが、そこから映し出されるものは、もはや思想書と人に言わしめるだけの明確な一つの哲学であり、その実践でもある。そして橋本は、確かに幸福なのだ。

 

 我々は時に愛らしい子供を“天使”と呼ぶ。

 それと同時に、泥臭い“人間らしさ”を愛しもする。

 それは、我々が妄想を愛しているからではなく、妄想の世界から脱して、妄想の先に見た幸福を手にしたいと望んでいるから起こる矛盾なのだ。

  人の抱える矛盾とは、それ自体が、その人が現在進行形で成長している証明。

  矛盾こそが、希望と呼ばれるものの正体だ。

 

  恋愛とは、なんと素晴らしいものだろうか。

 

  はっきり言って、もう、この世の中には僕達の他にはなんにもない訳。幸福っていうもの以外はなんにもないの。大空の下一面に広がった、まだ花が開きかけただけの、春のレンゲ畑の上に坐ってんのとおんなじなんだよ。僕の後で、彼が静かに寝息を立ててサ。その、ラクダ色の毛布ン中から、さわってる草の芽なんかが、ホントに出て来るみたいな気がすんの。

 勿論、まだ花なんか開かないんだけど。(中略)でも、「これから花って咲くかもしれないなァ」っていう、そういう大空の下のレンゲ畑の上で、その未来の満開の姿を予想出来るのって、ホントに幸福なことなんだよね。

 俺、それがあったから、その後二十年も生きられたと思う。

恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂) p246-247