七梨乃手記

……あなたは手記に食い込んだ男の指を一本一本引き剥がすと、頼りない灯りの下それを開いた。@N4yuta

TOKYO ART BOOK FAIRに出展します・1~出展作品について

『僕に間に合え』、9/19~21、C-33「de-part.jp」ブースにて販売。

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京都造形大学・東北芸術工科大学外苑キャンパスにて行われるTOKYO ART BOOK FAIR'15に出展できることになりました。

de-part.jpの白倉良晃さんが企画・デザインされた特殊製本にテキストを提供する形で、ショートストーリーを書かせて頂きました。

 

あらすじ

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『0時42分に、間に合うこと

        間に合わせること』

 

 多忙を極め、終電を追うばかりの生活を送っていた「僕」。

ある夜、一瞬の隙に気を取られている間に終電を逃してしまい、

寝静まった夜の街に独り、置き去りにされてしまう。

余りにも頼りない導きに従って当て所なく夜を彷徨う「僕」の頭の中に、

かつての「君」の声が去来する。

 

『人にとっての最高速度は、
  その人の歩く速さだから。
  その先はもう掴めないから』

 

交錯する時、記憶、想像、感情。

身体は一つしかない。でもその中にあるものまで一つとは限らない。

 

食べても食べても満たされないぼそぼそのスポンジケーキみたいな昼の言葉たちは全部暗闇に萎んでしまって、看板も標識も埋まって、それは僕らもそうで、何かを表すだけの言葉は意味がないから、僕は君の、君は僕の言うことをつないだ。それがすべての最小単位で、僕らはいつでもそこから始めて、何でも手に入れたし、どこにでも行けた。 

 

「僕」は思い出したのか。

    忘れたのか。

「君」はいなくなったのか。

    やってくるのか。

 

溢れだす時間は零れ落ちる時間となって、どんどんと喪われていく。

間に合わせだらけの世界で、「僕」は間に合うのか。

答えは時刻表の裏側に書かれた時間だけが知っている。

 

特殊製本「いいかげん折り」で作られた掌編小説 

『僕に間に合え』は、極めて珍しい特殊製本で有名な製本工場、(有)篠原紙工 様の製本モデル「いいかげん折り」を使用しており、薄口のブルーの紙に両面二色で、黒や白を一切使わず、街灯に照らされた闇夜や白み始めた早朝の空気を表現しています。

 

言葉の虚しくなる時間に滲み出る想像の世界が、ページをめくるごとにだんだんと(文字通りに!)広がっていき、一人歩きしていた言葉は何かに出逢い、織り上がっていきます。

 

ページごとに少しずつズレがあり、書かれた内容が“漏れ出す”この製本モデルは、主にリーフレットなどに使われていたようで、小説本としてのいいかげん折りのサンプルは、『デザインのひきだし』14号の付録ぐらいでしょうか。『僕に間に合え』は背綴じをしていないので、見た目は折りたたんだ一枚の紙なのですが、しかし、本です。

嬉しいことに、本作は篠原紙工様でも「いいかげん折り」のサンプルとしてご利用いただけるとのことです!光栄です!

 

この本で実現したかったこと。

それは紙の本の「道具」としての気持ち良さ……手繰ること、紐解くことの面白さをきちんと形にするということと、この言葉がどこまでも細切れに拡散していく現代で、その欠片を取り戻すことの意味を表すということです。

言葉は本来、常にイメージと寄り添っています。

言葉は、他人に自分のイメージを影絵のように投影するための“型”に過ぎないのです。

それを忘れた時、人の想像力は急速に渦を巻いて社会に飲み込まれてしまう。

それでも、隙を見つけては滲み出る。

それが想像力の強さなのだと思います。

 

『僕に間に合え』は一部500円で販売します。

七梨乃那由多は会場には行けませんが、何卒よろしくお願いいたします!

2015/08/17 あんびるはるか展『おそれ』について

それは食べることができます。

 

 最近展示の感想はツイートで済むことが多いし、取り立ててブログに書くようなことも無いので書かなかったが、今日の展示の感想はなんとなく家に持ち帰らないとうまくいかない気がした。

 

soundcloud.com

 

 現在はhjarta(イエルタ)名義で音楽活動をしつつ、絵画の発表もされているあんびるはるかさん。昨年HESOMOGEさんの個展でライブを拝見したのをきっかけに、展示にも伺い、その縁で今回の展示の招待を頂いたので、明大前のブックカフェ槐多にお邪魔してきた。

 

 

 あんびるさんの絵は猛烈に歪んでいて、歪んでいるにも関わらず、何かすとんと腹落ちするような安心感がある。あってはいけないものがあり得てしまっている現実を認めて立っているような佇まいは、何かを想像するということは、本当は新しい幻想を作り出すとかいうことではなく、ただかろうじてこの肉体の中に収まっている矛盾を、そのまま表出しているにすぎないと語りかけるかのようだ。

 それは言ってみれば偉大なことではないし、特別なことでもない。言葉を持った時点で理性と本能とに引き裂かれる定めの動物である人間が、かくも理性“的”に振る舞えていること自体が、まぁ奇跡的なことなのだ。自らを縛り上げ、歪まないことには、人が“佇む”ことなどできない。

 

 ご本人曰く、描き始めたきっかけは嫌悪感だったという 。

 それでもそうしてできた絵は何故か自分が好きなものになり、結果的に展示は自分の好きなものに囲まれるような状態になったそうな。

 自分の心を引きずり回す嫌なことが溶けていき、人になんと言われても構わないと言えるほどの確信を持って愛せる絵だけが遺った。それを聞いて、やはりマリオ バルガス=リョサを想わずにはいられない。即ち、人が何かを作ることや、表現することで得られるものは、そのために自分自身を喪うということなのだ。

  それは、例えば猛毒を持つフグを調理しておいしく食べてしまうように、自らの中に生まれた「おそれ」を取り込んで、ものにしてしまうということ。食べられるところ、食べたいところをより分けて、食べたいだけ食べる。それは歪なことだろうか?それはわがままなことだろうか?

 

 

 我々はただそこにいるだけで欠け続ける。何かを絶えず取り込まないことには生きていけない。

 愛すべき醜悪「だった」もの。

  あんびるはるかさんの絵の中には、曇天を根こそぎ持っていく台風のような、荒々しくも清々しい“渦”がうねり、観る人の心のもやをも巻き込んで、ソフトクリームのようにしてしまう。

 

 

 それは食べることができます。

 おいしく。

2015/03/20 私は失うことを得た

youtu.be

空虚という実感。

 童貞女子とかいう新しいクソステータスが出てきて、cakesでこの連載が更新されるたびに開いては「クソだな……」と毒づく日々が続いているわけだが、弱者利権というのは確かに、ある。

 

 “なれるかも知れないわたし”を質に入れることで借りられるエネルギーというのはあり、それでも正気を経営していくことはできる。

 問題は、“なれるかも知れないわたし”もまた一人の人間であり、なれるかも知れないがために、勝手に戻ってくる可能性があるということだ。

 その場合には、それまで借りたエネルギーを返済する必要に迫られる。

 完済もできず、夜逃げもできなければ、“意義”を差し押さえられる。

 空虚であることもそのまま掲げ続ければコンテンツになって利益を上げるこの時代、己のリアルを抱えることは、見方によっては負債を抱えるということにもなり得る。

 もっとも、自分は結局希望を求めているのか絶望を求めているのかと聞かれて後者と答えられる人間は口を開く前にもう死んでいる。それでも態々リアルを細かく投げ捨ててみるものがいるのは、単純に酔いたくなっただけのことだ。勝てもしないギャンブルに金を使って安酒を呷り暴れているのと変わらない。

 

 生憎、未来に胸を高鳴らせることができるような、“予兆”を楽しむことのできる人間を見逃したままでいられるほど、人の目は腐っていない。いつか必ず見出されるだろう。ヘンリー・ダーガーですら逃げ切れなかったのだから。

 問題は、借り物のエネルギーで取り寄せた“意義”を、自力で買い戻す生産能力を持っているか、ということだ。

 殉教者と伝道者では生き方が違う。

 メディアに求められるのは自意識の排除だが、エキスパートに求められるのはむしろ、自分とその対象がいかにして「関係している」か、ということだ。

 

 リアルなやりとりは、あくまでも語りかけることによって進行する。

 そうしてわたしたちは、得ることを得て、失うことを得る。

 利益も損失も、邂逅も別離も、すべてが“獲得したもの”であって、それを認知して初めて、わたしたちは何かを生産することを始められる。

 手を合わせるのではなく、握りに行くことができれば、いつか夢たちの一人と友達になることもできるだろう。

 そして「手の温もりはちゃんと知っていた」のなら、それがやはり一番のことなのだ。

 

 それは自分を貶めない。

 貶めるようなことにならないために、わたしたちは無駄に未来を予感する感覚を持っているのだと思う。

 そんなわけで、なんでも自分ごとと思って考えてみる練習が自分にも必要だよなあ、と考える今日この頃。

狂気は陶酔によって最適化され、現実に適用される――橋本治『恋愛論』について

“カップリングは「世界なんか私とあなたでやめればいい」。やめてからもっかい作ればいいのだよ。”

狂わせ、狂う能力はあるか 橋下治『恋愛論』感想文 - (チェコ好き)の日記

 

 冒頭の見出しは川上未映子の言。

 

 Skype読書会?の流れで、二村ヒトシ『すべてはモテるためである』と、橋本治『恋愛論』への言及を観測した。今回はid:aniram-czech氏が新たに取り上げられている『恋愛論』の方に乗ってみる。いずれもcakesで紹介されていて、自分もそこでこの名著を発見した。

 


恋愛論(橋本治)前編|新しい「古典」を読む|finalvent|cakes(ケイクス)

 

 『恋愛論』がすべての人間に一読をおすすめできる理由は、橋本治というひとが独り、本書の下敷きとなった同名の講演の始めから終わりまで、恋愛の実存を否定し続けたことにある。彼はそのために壇上で自らに呆れ、泣きすらするが、それでも彼はあくまでも自律して現実に作用してくる第三者的な「恋心」の存在を丁寧に否定し続けた。

 上記finalvent氏の書評では、そのようにして自ら意味を削ぎ落としていく中でどうしても滲み出てしまう感情、心の反動を観衆に見せていくライヴ感が評価されているが、まったくそのようにして、言葉によっては定義され得ない恋愛というものの実在を語ろうとしているわけだ。

 

 まず、16ページでいきなりこんな文句が飛び出してくるわけで。

 

 この世には結婚というものはあって、そのことはとっても確固として存在していて、それのお余り、そこに行く途中のお目こぼしとして“それを恋愛として享受する自由”とか“楽しい交際”っていうものがあるっていうことですよね。つまり、この世には恋愛というものが存在する余地、恋愛というものを受け入れる余地っていうものはないんですね。このことをしっかり頭に叩き込んどいた方がいいと思いますね。

恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂) p16

 

  恋はするもの?落ちるもの?だとかいう問い以前に、「恋なんて無いのだ」と言い放ってしまう橋本。本書では極めてシステマティックに、この世界における恋愛の立ち位置について分析と検討が繰り広げられるわけだが、それは「『現代社会において』恋愛というのはどのあたりの立ち位置にあるのか」とか、「打算的である方が良いのか、情緒的である方が良いのか」とかいった次元をさくっと乗り越えて展開されていく。

 橋本治というひとは、本人も何度も言っているが、自らの我の強さを明確に自覚し、それを強みとして押し出していくことにためらいのないひとで、自然、人生を語るスタンスにしても徹底した実存主義というか、とにもかくにも世界には「自分」が最初にあって、「自分」には現実と向かい合って解決していかなければならない課題があり、それは何かって、要するに「自分」に足りないものをどんどん取り入れていくという、それがすべてだという考えのひとなので、恋に落ちているという状態について、とにかくそれはモラトリアム、まったくの空白期間なのだと語る。そしてその空白とは、つまるところ自分が次のステージへ移っていくための緩衝剤であって、箱に詰める丸めた新聞やビニールのクッションのように使われるものなのだと定義するのだ。

 

 要するに、他人の美点を取り入れる努力もしたいが、しかしそれはメンドクサイ。メンドクサイ上に、そんなことをしたら、このどうしようもない自分にもやっぱり備わっている“自分の美点”というものを失ってしまう。そんなメンドクサイ、しかも収拾のつかない矛盾のようなものを突っつき回していてもしょうがない、サイワイ、自分の中には“恋愛感情”という便利なものがあるではないか。今までこれがどういう使われ方をするものであるのかよく分からなかったが、なるほど、遂にここへ来てこの不思議なものの利用法が分かって来たぞ、分かって来たような気がするぞ――

恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂) p94

 

  橋本治にとって、恋愛とは緊急避難なのだ。

 この世界に生まれ落ちて、自分を構築していくなか、独力ではうまくいかない気分になり、どこか手詰まりを感じる……そんなある地点における「成熟」を迎えたときに、眼前に飛び越えなければならない(が、あまりにも大きな)クレバスが見えてきて、その向こうに「誰か」が立っていることを発見し、そこからモーレツに恋というものは始まっていく。この“感性的な成熟”、橋本がいうところの“陶酔能力がある”とはまさにそのことを言っている。要は、「自分を愛せなきゃ人も愛せない」わけだけど、その自分はやっぱり自分で作るしかない、土台を作ってその上に立った時に、初めて他者というものが見えてくるのだ、ということ。

 

 ではその後恋愛はどのように推移していくのか?

  橋本は、恋をするとは、目指すべき“陸地”と自分との間にあるクレバスに猛然と「妄想を投棄」し、埋め立て地を作ることで繋ぎとめていく作業であると説く。

 

 恋愛っていうのは、自分ていう海の中の離れ小島と“陸地”っていうものの間を、妄想というものをドンドン捨てて行って埋め立てて行くことによってつなぎとめる作業だと思うの。妄想がドンドン捨てられていくから、恋っていうのは、ちゃんと終るんだよね。そして、その埋め立てられて、ちょっとずつ陸地が現われて来る、その状態のことを“幸福”って呼ぶんだよね。 

(中略) 

 恋愛が結婚に続いていくっていう考えでいけば、その離れ小島と地続きになる陸地は“結婚”でしょうよっていうのもあるけど、僕の場合は、実は違うのね。これから先はどうか分かんないけど、今までのところで行けば、離れ小島と地続きになって行く陸地っていうのは、実は“自分”なのね。

 恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂) p127-128

 

   もともと離れ小島だった自分が繋がった先にある陸地もまた自分というのは、一体どういうことなのか。それは、妄想の中の自分が考えていたものとは全く違う、より明確で、強固で、安易なものでない現実、つまり「幸福な自分」との出会いなのだという。それは「理想の自分」ではないが、自由であり、確固たる自分という土台に足をつけた人間であるのだという。

 なんと冷たく、心を打つ考えだろうか。

 

 橋本は、しかし、同時に“幸福感”という欺瞞を持ってはいけないと警告する。

 現に存在している「幸福な自分」と、恋愛において用いられる妄想の中に練りこまれた“幸福感”を一つにしてはならない、と説く。妄想はあくまでも投棄されなければならず、それを使ってレンガの家を建てても、結局それは牢獄にしかならない。妄想には、現実を生むものと、ただ霧消していくものの二種類があり、それは外気に触れさせることでしか明らかにならないのだ。

 

 本書は橋本個人の恋愛体験をベースに語られるものであり、ご本人の性格も相まってそれなりにアクの強い内容ではあるが、そこから映し出されるものは、もはや思想書と人に言わしめるだけの明確な一つの哲学であり、その実践でもある。そして橋本は、確かに幸福なのだ。

 

 我々は時に愛らしい子供を“天使”と呼ぶ。

 それと同時に、泥臭い“人間らしさ”を愛しもする。

 それは、我々が妄想を愛しているからではなく、妄想の世界から脱して、妄想の先に見た幸福を手にしたいと望んでいるから起こる矛盾なのだ。

  人の抱える矛盾とは、それ自体が、その人が現在進行形で成長している証明。

  矛盾こそが、希望と呼ばれるものの正体だ。

 

  恋愛とは、なんと素晴らしいものだろうか。

 

  はっきり言って、もう、この世の中には僕達の他にはなんにもない訳。幸福っていうもの以外はなんにもないの。大空の下一面に広がった、まだ花が開きかけただけの、春のレンゲ畑の上に坐ってんのとおんなじなんだよ。僕の後で、彼が静かに寝息を立ててサ。その、ラクダ色の毛布ン中から、さわってる草の芽なんかが、ホントに出て来るみたいな気がすんの。

 勿論、まだ花なんか開かないんだけど。(中略)でも、「これから花って咲くかもしれないなァ」っていう、そういう大空の下のレンゲ畑の上で、その未来の満開の姿を予想出来るのって、ホントに幸福なことなんだよね。

 俺、それがあったから、その後二十年も生きられたと思う。

恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂) p246-247

 

2015/01/30 朝から逃げ出したくなる夜に

大事と好きの境も分からず、見つめる前に手を出していた。

 何が悲しくてこの冷蔵庫の中にいるような寒さに耐えてこましゃくれた気障りな街を歩かなければいけないのだろう、と真面目に考えていた。

 時間を潰すために入った喫茶店ではギークたちが理想の仕事論を大声で語るためだけにPCで場所を取り、残りのテーブルにはすべて着飾ったOLか、そこを自分のオフィスデスクか何かと勘違いしたサラリーマンが座っていて、気を滅入らせた。誰も寛いでなんかいやしない。昼の延長線上の切れ目を埋めるために止まり木に引っかかっているだけだ。この街の夜は嘘だらけだと思った。

 

 学校に異性がいないこと、親にガチガチに縛られていたこと、英語やいくつかの教科は抜群の成績だったこと、次々にいたずらを思いつくこと、誰よりも悪ガキでありたいと思っていたこと。三人にはそういう共通点があった。雑踏から丸見えの塾の中で、今日はどんな事件を起こしてやろうかとニヤニヤしながら授業を受けていた。女は歯の矯正器具と眼鏡の色を毎週変えてきた。男はより過激なセックスの話を持ち込むために努力した。男はノートの代わりにネタ帳を持参した。誰もグローバル人材になんてなろうとしなかった。面白い木曜日を作れればそれでよかった。

 それでも、乗ったレールには少しずつ差があって、ある時当たり前のようにそんな時間は引き裂かれた。関係も。それでもよかった。その先にあるものを疑っていなかったし、すっかり自分の人生を面白くできる気でいたからだ。何が面白かったのかを考えようともしなかった。大事にする、ということがわからなかったので、とりあえずすべてに好きと言っていた。足りない言葉の代わりが思いつかなくて、とりあえず手のひらで埋めていた。持ち寄った火種を派手に燃やして、その炎と人情の区別も付かずにはしゃいでいた。誰のこともなんとも思わなかった。どうでもよかった。たき火を囲んで手を繋いで回ればそれが仲良しってやつだと考えていた。別れれば二度と会うこともない。その必要性を誰も感じていなかった。

 

 悪友。

 女は本当に欲しかった自分をついぞ考えずに家庭に入った。男は爛れた関係のツケを払い、長く秘めた憧れに触れる機会を失った。男は結局面白い物語の一つも書き上げられなかった。

 それでも社会というエスカレーターはつい、と進んで、機械的にステイタスや階級をもたらす。するするとその上を滑って毎日を生きることは難しくない。大人のふりをすることも。遊びに困ったことなんてない。味方も必要ない。ただ糞をするように罪を重ねて、ままならなさに憤り続けてきた。幼稚さを誇るように、独善を掲げて、報われない道を胸を張って歩いた。何も手に入らなかった。何も積み重ならなかった。暗に軽蔑し合うだけのつまらない大人になったような気がしていた。

 

 恵比寿で一番淫猥な話題の酒席を打って、窓から若手社会人の仮面を投げ捨てた。どいつもこいつもくだらない人生を歩んでいた。どうにもふざけた面持ちで、間抜けな燻りを後生大事に今夜に持ち越していた。アグー豚が燃えて、だらだらと脂を垂れ流した。互いの酒杯を回し飲みして、撮影を頼まれた店員は連射モードで十枚近く同じ写真を撮った。何もかも馬鹿みたいだと思った。嘘は全部脱いで鉄板で焼いて食ってしまった。後には糞ったれの中学生しか残らなかった。生きる意味なんていらねえよ。爆竹でも刺してやれ。馬鹿野郎。真実ばかりの時間を太陽が追いかけてきた。豚の脂でも燃やしてろ。タクシーに女と押し込まれた。襲えとLINEでスパムされた。俺はその画面を女に見せた。お前ら本当にいいやつだな、と女は言った。

2015/01/15 言葉断捨離意識序破急

真面目な話、やっと心臓動いてる意味解ってきた気がしてる。

ネットの音楽オタクが選んだ2014年の日本のアルバム ベスト50→1 - 音楽だいすきクラブ

 

@grassrainbowのMy Best ALBUM 2014(邦楽編) - Togetterまとめ

 

蓮沼執太フィル「ZERO CONCERTO」 - YouTube

 

 いや本当ありがとうございます。ご紹介ありがとうございます。

 音楽という世界、本当に掘れば掘るほど理想に近づいていけるので希望しか湧かないなあ。

 もう最近本当に、空き時間に読書か音楽を聴いたり歌ったりすることしかできなくなってきたのだ。

 実際、音楽ほど(自分の好みにはまれば)隙のない遊びもない。一秒だって退屈する暇が無いわけだからなあ。

 僅か数分の間に凝縮されたあまりにも多くの言語と感覚。末広がりに放出されていく音を一筋に収斂させていくのは一体なんだろう、ハーモニーという言葉も、意思という言葉もその現象の両極でしかない。共同幻想と斬って捨てるにはあまりにも濃く、確かな質感を持った息吹。

 音楽も結局は生活音や喧噪の一部に過ぎないのかも知れない。好きな街、嫌いな街があるように、勝手にそこに立ってわが物にしたような気になっているだけなのかも知れない。表現、表現、表現。安直に用いられる『祈り』なんて言葉の軽さには耐えられず、率先して自らを投げうち、明らかに個の範囲では理解を超える何かに、それでも個をもってコミットしていき、その感覚が何なのかを確かめずにはいられないわれら。

 

 さんざん色々な場所で踊って歌って、ステップを踏んでたら漠然と「あー、心臓が止まってたら体でビート刻めないな」というしょうもないことに気付いて、こんないい音山ほど出てくるならまだセッション用にこのくそったれな肉体も取っといてやってもいいな、と最近ちゃんと思い始めた。何年音楽聴いているんだよ。今更だよ。まあそれが大人になるということであればまあそれもよし。

 

 っでね、もう好きな人はご存知なんだけど、自分の中でとてもとても評価の高い音楽は本当に言語化できないというか、あっ太刀打ちできないです……とばかりに言葉が毛穴から飛び出して行ってしまい、最近はなかなか、それはもうなかなか言葉足らずな日々だ。

 これはもうあれなのか、デトックス的な何かなのか。これだけ情報を過剰に摂取する日々を送っていても、人生には「言葉にする必要のない言葉」があるということに気付く。意外と忘れるんだ、これが。忌み嫌うものは、実際のところ、自分との相性が悪いだけか、すでにそれ自体が死につつあるものかのどちらかで、結局自分の人生とは関わらずに外れていくものだったんだ。

 

 だからというわけではないけど、頭の中に渦巻く思考もだいぶ整理が始まった気がしていて、これは捗る捗るといった具合。そして勉強が特に捗っている。なるほど、言葉を捨てて生きているようで、本当に必要なものだけ静かに内に積み重ねるための強制断捨離マシーン。表現よ。そして空っぽになった頭には入れたかったものを入れよう。壺に大きな石を先に入れずに小石や砂を先に入れると取り返しがつかないという。でも別に取れるのでまた入れ直そう。

 ロジカルとそうでない領域の行き来はまだ続く。行き来を繰り返して橋を架け続けて、輪郭をつかむ。そう、ウィトゲンシュタインがいつかつかめるだろうといったそれを。天蓋のへりを。それまでに死ぬかもしれないが、行く価値はあるのだ。ぬう。ぬう。

2015/01/14 Elegy for a dead world

もはや創作なのか消費なのか。


インディーズゲームの小部屋:Room#361「Elegy For A Dead World」 - 4Gamer.net

 

 まさかの背景に沿って直接ストーリーを書き込む「ゲーム」というわけで、そもそも全篇好き勝手に書けるのはそれはもうただの創作なんじゃないかと思いつつ、物語を書くのがゲームになるっていうんならやってみようじゃねえかということでやってみた。

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 まあー感触としてはゲームではないですよね。これね。

 だってまずインタラクティブ性がないもんね。書き込んだことによって何かがフィードバックされるわけじゃないし。ワークショップ経由で他のプレイヤーに読んでもらえるよーとか、それはもう単純に小説投稿サイトなんじゃないかという話なんですけどね。

 アイデアは好きだけどね。ってか個人的にはどんどん新しいステージを用意してほしいけどね。これが例えば不特定多数のプレイヤーによって作られるリレー型小説!みたいな体であったらゲームと呼びうると思うけど。MO形式で、4人とかで執筆をリレーして、みたいな。(まあ書き上げたものがどこで評価を受けるかっていう報酬の問題があるんだけど)

 

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 ただ、小説を書くにあたってのアシストツールとしては結構よくできていて、同じステージでも戯曲モードとか英文法練習モードとか、さまざまなテーマが用意されているので、これから何かを書いてみたい人とか、書き方を練習したい人にとってはありがたいと思う。英語だけどね。1・2時間ぐらいでさくさくっと書けるようなボリュームだし。

 とりあえずオーソドックスな「Byron星の時代」という設定で一篇書き上げたので掲載。基本的に最初の一行だけがゲームによるリードで、そこも改変して書き進めてる。色々文法が間違っているかもしれないが、もしわかる人は教えてくれるとありがたい。

 

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Arh'du - the melted civilization

Arh'du (アル・ドゥ):溶けた文明』

 

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 五億年前、この星は『アル・ドゥ』と呼ばれる種族の故郷だった。

 アル・ドゥはこの星系で最も文明の進んだ種族だった。彼らは成功者であり、侵略者であり、そして絶対的な支配者だった。だが今となっては、彼らは数々の奇妙ながらくたを遺し、遠い神話と成り果てている。

 

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 彼らは支配下の星を『Gim'a』――今では『the Jade(翡翠)』と呼ぶ――という金属製の素材で覆いつくし、そこから数々のテクノロジーや兵器、建築物、そして種そのものを作り出した。

 

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 他の惑星は彼らの手に落ち、次々に翡翠の実験場へと造り替えられた。彼らの侵攻に反抗できるものは誰一人いなかった。なぜって?それは星そのものが相手だったから。

 アル・ドゥが幾千もの『翡翠を星に降らせ、『翡翠』がその土壌に触れると、『翡翠』はその星に刻まれた記憶を抽出し、その星に住む種族や社会を――アル・ドゥの高い知識と技能を上書きしたうえで――丸ごと複製する。誰も複製された者が誰か見分けることはできない。というよりも、誰もそんなことを考えもしない。彼らは『翡翠』という名の“恵みの雨”によって我々は進歩したのだ、と喜ぶばかりだった。

 

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 千年もの間、アル・ドゥの“帝国”は栄華を誇った。

 『翡翠』は銀河中の知識と歴史を記録し、アル・ドゥはそれを星々を統治するのに用いた。それぞれの星には独自の種族と社会があったけれど、彼らの進化――最も根源的な「意志」そのもの――はアル・ドゥの手の中にあった。

 

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 高層建築はアル・ドゥ支配下の文明に共通した特徴だ。彼らは『翡翠』の生成工場を建て、それをオベリスクという、地上で最も高い塔から噴霧させる。オベリスクはそれぞれの社会における宗教的なモニュメント(教会のようなものだ)も兼ねている。

 宗教のバリエーションというのは当然ながら膨大にあった。だがそのすべての存在意義は、究極的にはたった一つの教条に集約された。

 ――「繁栄を讃えよ」。まあ、誰にも反対なんてされないわよね。もちろんそれが続いている間は、だけど。

 

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 アル・ドゥによる統治に不可欠なのがこの『石笛』だった。

 『翡翠』の砂がこの『石笛』の穴の中を通り抜けるときに、音が鳴る。とても大きくて耳障りだけど、どこか音楽のように聴こえなくもない。ちょうど誰かが巨大でボロボロのパイプオルガンで聖歌を奏でようとしているような感じ。その音で、アル・ドゥは星の状態を把握していた。

 

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 子供たちは歌い、大人たちは詩を書いた。

 戦争、弾圧、虐殺……数多くの破滅が訪れても、諦めるものはいなかった。それどころか立ち止まろうとするものすらいなかった。進化し続けることこそが唯一にして絶対の答えだということを、彼らはあらかじめ知っていたんだ。

 そして彼らはそれを疑わなかった。だから誰も悲しまなかった。彼らにとって、目に入るものはすべて、次なる進歩への光だった。

 彼らは常に幸せだったのよ。

 

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 その一方で、町の目立たない場所や個室の一角には、時折彼らの宗教的シンボルを冒涜するグロテスクな絵が描かれることがあった。

 アル・ドゥに支配されたものたちは決してアル・ドゥに立ち向かおうとはしなかったし、『翡翠』の力を疑うこともなかった。もちろん互いに殺し合うこともあったけど、オベリスクを攻撃することはついぞなかった。無意識のうちに自分たちが『翡翠』の子だとわかっていたのね。

 でも……だとしたら、何故こんな絵が残っているの……?

 

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 しかし、余りにも繁栄の限りを尽くしたもののご多分に漏れず、数千年後に全ての終わりが来た。

 

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 文明は堕ちた。大地の底が抜けたのよ。

 ある時、突然あらゆる『翡翠』が粉状に溶けだした。

 地面が、建物が、そして人々が……『翡翠』を内包するあらゆるものが溶け、風に吹かれて消えた。

 “本物の”大地でできたものは地上に残ったけれど、

 生命は……どこにも残らなかった。

 

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 大地は新たな生命を生み出すのを止めてしまった。

 星には、ただ風に吹かれる『翡翠』と植物だけが、生命の存在意義を忘れたかのようにそこにあるだけだった。

 それはとても静かで、平和な世界だった。

 

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 そして何千年もの時が経って、原始的な建物がこの星に建てられた。

 誰のかって?そうね……

 

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 “彼ら”は学んだことの全てを活かして、決して間違った進化をしないよう試みた。

 “彼ら”は常に風に吹く『翡翠』の音を聴き、“祖先たち”の失敗を思い出した。

 “彼ら”は絶対にそうした失敗を繰り返さなかった。

 

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 無限と喪われた生命たちは、アル・ドゥ――私たちの文明の再起のために役立てられた。

 

 私たちには、

 失敗も、

 悲劇も、

 後悔もない。

 

 ためらう気持ちも、ない。

 

 でも……それでも、彼らの死を悼まずにいられないのは、何故?