七梨乃手記

……あなたは手記に食い込んだ男の指を一本一本引き剥がすと、頼りない灯りの下それを開いた。@N4yuta

2015/03/20 私は失うことを得た

youtu.be

空虚という実感。

 童貞女子とかいう新しいクソステータスが出てきて、cakesでこの連載が更新されるたびに開いては「クソだな……」と毒づく日々が続いているわけだが、弱者利権というのは確かに、ある。

 

 “なれるかも知れないわたし”を質に入れることで借りられるエネルギーというのはあり、それでも正気を経営していくことはできる。

 問題は、“なれるかも知れないわたし”もまた一人の人間であり、なれるかも知れないがために、勝手に戻ってくる可能性があるということだ。

 その場合には、それまで借りたエネルギーを返済する必要に迫られる。

 完済もできず、夜逃げもできなければ、“意義”を差し押さえられる。

 空虚であることもそのまま掲げ続ければコンテンツになって利益を上げるこの時代、己のリアルを抱えることは、見方によっては負債を抱えるということにもなり得る。

 もっとも、自分は結局希望を求めているのか絶望を求めているのかと聞かれて後者と答えられる人間は口を開く前にもう死んでいる。それでも態々リアルを細かく投げ捨ててみるものがいるのは、単純に酔いたくなっただけのことだ。勝てもしないギャンブルに金を使って安酒を呷り暴れているのと変わらない。

 

 生憎、未来に胸を高鳴らせることができるような、“予兆”を楽しむことのできる人間を見逃したままでいられるほど、人の目は腐っていない。いつか必ず見出されるだろう。ヘンリー・ダーガーですら逃げ切れなかったのだから。

 問題は、借り物のエネルギーで取り寄せた“意義”を、自力で買い戻す生産能力を持っているか、ということだ。

 殉教者と伝道者では生き方が違う。

 メディアに求められるのは自意識の排除だが、エキスパートに求められるのはむしろ、自分とその対象がいかにして「関係している」か、ということだ。

 

 リアルなやりとりは、あくまでも語りかけることによって進行する。

 そうしてわたしたちは、得ることを得て、失うことを得る。

 利益も損失も、邂逅も別離も、すべてが“獲得したもの”であって、それを認知して初めて、わたしたちは何かを生産することを始められる。

 手を合わせるのではなく、握りに行くことができれば、いつか夢たちの一人と友達になることもできるだろう。

 そして「手の温もりはちゃんと知っていた」のなら、それがやはり一番のことなのだ。

 

 それは自分を貶めない。

 貶めるようなことにならないために、わたしたちは無駄に未来を予感する感覚を持っているのだと思う。

 そんなわけで、なんでも自分ごとと思って考えてみる練習が自分にも必要だよなあ、と考える今日この頃。

狂気は陶酔によって最適化され、現実に適用される――橋本治『恋愛論』について

“カップリングは「世界なんか私とあなたでやめればいい」。やめてからもっかい作ればいいのだよ。”

狂わせ、狂う能力はあるか 橋下治『恋愛論』感想文 - (チェコ好き)の日記

 

 冒頭の見出しは川上未映子の言。

 

 Skype読書会?の流れで、二村ヒトシ『すべてはモテるためである』と、橋本治『恋愛論』への言及を観測した。今回はid:aniram-czech氏が新たに取り上げられている『恋愛論』の方に乗ってみる。いずれもcakesで紹介されていて、自分もそこでこの名著を発見した。

 


恋愛論(橋本治)前編|新しい「古典」を読む|finalvent|cakes(ケイクス)

 

 『恋愛論』がすべての人間に一読をおすすめできる理由は、橋本治というひとが独り、本書の下敷きとなった同名の講演の始めから終わりまで、恋愛の実存を否定し続けたことにある。彼はそのために壇上で自らに呆れ、泣きすらするが、それでも彼はあくまでも自律して現実に作用してくる第三者的な「恋心」の存在を丁寧に否定し続けた。

 上記finalvent氏の書評では、そのようにして自ら意味を削ぎ落としていく中でどうしても滲み出てしまう感情、心の反動を観衆に見せていくライヴ感が評価されているが、まったくそのようにして、言葉によっては定義され得ない恋愛というものの実在を語ろうとしているわけだ。

 

 まず、16ページでいきなりこんな文句が飛び出してくるわけで。

 

 この世には結婚というものはあって、そのことはとっても確固として存在していて、それのお余り、そこに行く途中のお目こぼしとして“それを恋愛として享受する自由”とか“楽しい交際”っていうものがあるっていうことですよね。つまり、この世には恋愛というものが存在する余地、恋愛というものを受け入れる余地っていうものはないんですね。このことをしっかり頭に叩き込んどいた方がいいと思いますね。

恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂) p16

 

  恋はするもの?落ちるもの?だとかいう問い以前に、「恋なんて無いのだ」と言い放ってしまう橋本。本書では極めてシステマティックに、この世界における恋愛の立ち位置について分析と検討が繰り広げられるわけだが、それは「『現代社会において』恋愛というのはどのあたりの立ち位置にあるのか」とか、「打算的である方が良いのか、情緒的である方が良いのか」とかいった次元をさくっと乗り越えて展開されていく。

 橋本治というひとは、本人も何度も言っているが、自らの我の強さを明確に自覚し、それを強みとして押し出していくことにためらいのないひとで、自然、人生を語るスタンスにしても徹底した実存主義というか、とにもかくにも世界には「自分」が最初にあって、「自分」には現実と向かい合って解決していかなければならない課題があり、それは何かって、要するに「自分」に足りないものをどんどん取り入れていくという、それがすべてだという考えのひとなので、恋に落ちているという状態について、とにかくそれはモラトリアム、まったくの空白期間なのだと語る。そしてその空白とは、つまるところ自分が次のステージへ移っていくための緩衝剤であって、箱に詰める丸めた新聞やビニールのクッションのように使われるものなのだと定義するのだ。

 

 要するに、他人の美点を取り入れる努力もしたいが、しかしそれはメンドクサイ。メンドクサイ上に、そんなことをしたら、このどうしようもない自分にもやっぱり備わっている“自分の美点”というものを失ってしまう。そんなメンドクサイ、しかも収拾のつかない矛盾のようなものを突っつき回していてもしょうがない、サイワイ、自分の中には“恋愛感情”という便利なものがあるではないか。今までこれがどういう使われ方をするものであるのかよく分からなかったが、なるほど、遂にここへ来てこの不思議なものの利用法が分かって来たぞ、分かって来たような気がするぞ――

恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂) p94

 

  橋本治にとって、恋愛とは緊急避難なのだ。

 この世界に生まれ落ちて、自分を構築していくなか、独力ではうまくいかない気分になり、どこか手詰まりを感じる……そんなある地点における「成熟」を迎えたときに、眼前に飛び越えなければならない(が、あまりにも大きな)クレバスが見えてきて、その向こうに「誰か」が立っていることを発見し、そこからモーレツに恋というものは始まっていく。この“感性的な成熟”、橋本がいうところの“陶酔能力がある”とはまさにそのことを言っている。要は、「自分を愛せなきゃ人も愛せない」わけだけど、その自分はやっぱり自分で作るしかない、土台を作ってその上に立った時に、初めて他者というものが見えてくるのだ、ということ。

 

 ではその後恋愛はどのように推移していくのか?

  橋本は、恋をするとは、目指すべき“陸地”と自分との間にあるクレバスに猛然と「妄想を投棄」し、埋め立て地を作ることで繋ぎとめていく作業であると説く。

 

 恋愛っていうのは、自分ていう海の中の離れ小島と“陸地”っていうものの間を、妄想というものをドンドン捨てて行って埋め立てて行くことによってつなぎとめる作業だと思うの。妄想がドンドン捨てられていくから、恋っていうのは、ちゃんと終るんだよね。そして、その埋め立てられて、ちょっとずつ陸地が現われて来る、その状態のことを“幸福”って呼ぶんだよね。 

(中略) 

 恋愛が結婚に続いていくっていう考えでいけば、その離れ小島と地続きになる陸地は“結婚”でしょうよっていうのもあるけど、僕の場合は、実は違うのね。これから先はどうか分かんないけど、今までのところで行けば、離れ小島と地続きになって行く陸地っていうのは、実は“自分”なのね。

 恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂) p127-128

 

   もともと離れ小島だった自分が繋がった先にある陸地もまた自分というのは、一体どういうことなのか。それは、妄想の中の自分が考えていたものとは全く違う、より明確で、強固で、安易なものでない現実、つまり「幸福な自分」との出会いなのだという。それは「理想の自分」ではないが、自由であり、確固たる自分という土台に足をつけた人間であるのだという。

 なんと冷たく、心を打つ考えだろうか。

 

 橋本は、しかし、同時に“幸福感”という欺瞞を持ってはいけないと警告する。

 現に存在している「幸福な自分」と、恋愛において用いられる妄想の中に練りこまれた“幸福感”を一つにしてはならない、と説く。妄想はあくまでも投棄されなければならず、それを使ってレンガの家を建てても、結局それは牢獄にしかならない。妄想には、現実を生むものと、ただ霧消していくものの二種類があり、それは外気に触れさせることでしか明らかにならないのだ。

 

 本書は橋本個人の恋愛体験をベースに語られるものであり、ご本人の性格も相まってそれなりにアクの強い内容ではあるが、そこから映し出されるものは、もはや思想書と人に言わしめるだけの明確な一つの哲学であり、その実践でもある。そして橋本は、確かに幸福なのだ。

 

 我々は時に愛らしい子供を“天使”と呼ぶ。

 それと同時に、泥臭い“人間らしさ”を愛しもする。

 それは、我々が妄想を愛しているからではなく、妄想の世界から脱して、妄想の先に見た幸福を手にしたいと望んでいるから起こる矛盾なのだ。

  人の抱える矛盾とは、それ自体が、その人が現在進行形で成長している証明。

  矛盾こそが、希望と呼ばれるものの正体だ。

 

  恋愛とは、なんと素晴らしいものだろうか。

 

  はっきり言って、もう、この世の中には僕達の他にはなんにもない訳。幸福っていうもの以外はなんにもないの。大空の下一面に広がった、まだ花が開きかけただけの、春のレンゲ畑の上に坐ってんのとおんなじなんだよ。僕の後で、彼が静かに寝息を立ててサ。その、ラクダ色の毛布ン中から、さわってる草の芽なんかが、ホントに出て来るみたいな気がすんの。

 勿論、まだ花なんか開かないんだけど。(中略)でも、「これから花って咲くかもしれないなァ」っていう、そういう大空の下のレンゲ畑の上で、その未来の満開の姿を予想出来るのって、ホントに幸福なことなんだよね。

 俺、それがあったから、その後二十年も生きられたと思う。

恋愛論 完全版 (文庫ぎんが堂) p246-247

 

2015/01/30 朝から逃げ出したくなる夜に

大事と好きの境も分からず、見つめる前に手を出していた。

 何が悲しくてこの冷蔵庫の中にいるような寒さに耐えてこましゃくれた気障りな街を歩かなければいけないのだろう、と真面目に考えていた。

 時間を潰すために入った喫茶店ではギークたちが理想の仕事論を大声で語るためだけにPCで場所を取り、残りのテーブルにはすべて着飾ったOLか、そこを自分のオフィスデスクか何かと勘違いしたサラリーマンが座っていて、気を滅入らせた。誰も寛いでなんかいやしない。昼の延長線上の切れ目を埋めるために止まり木に引っかかっているだけだ。この街の夜は嘘だらけだと思った。

 

 学校に異性がいないこと、親にガチガチに縛られていたこと、英語やいくつかの教科は抜群の成績だったこと、次々にいたずらを思いつくこと、誰よりも悪ガキでありたいと思っていたこと。三人にはそういう共通点があった。雑踏から丸見えの塾の中で、今日はどんな事件を起こしてやろうかとニヤニヤしながら授業を受けていた。女は歯の矯正器具と眼鏡の色を毎週変えてきた。男はより過激なセックスの話を持ち込むために努力した。男はノートの代わりにネタ帳を持参した。誰もグローバル人材になんてなろうとしなかった。面白い木曜日を作れればそれでよかった。

 それでも、乗ったレールには少しずつ差があって、ある時当たり前のようにそんな時間は引き裂かれた。関係も。それでもよかった。その先にあるものを疑っていなかったし、すっかり自分の人生を面白くできる気でいたからだ。何が面白かったのかを考えようともしなかった。大事にする、ということがわからなかったので、とりあえずすべてに好きと言っていた。足りない言葉の代わりが思いつかなくて、とりあえず手のひらで埋めていた。持ち寄った火種を派手に燃やして、その炎と人情の区別も付かずにはしゃいでいた。誰のこともなんとも思わなかった。どうでもよかった。たき火を囲んで手を繋いで回ればそれが仲良しってやつだと考えていた。別れれば二度と会うこともない。その必要性を誰も感じていなかった。

 

 悪友。

 女は本当に欲しかった自分をついぞ考えずに家庭に入った。男は爛れた関係のツケを払い、長く秘めた憧れに触れる機会を失った。男は結局面白い物語の一つも書き上げられなかった。

 それでも社会というエスカレーターはつい、と進んで、機械的にステイタスや階級をもたらす。するするとその上を滑って毎日を生きることは難しくない。大人のふりをすることも。遊びに困ったことなんてない。味方も必要ない。ただ糞をするように罪を重ねて、ままならなさに憤り続けてきた。幼稚さを誇るように、独善を掲げて、報われない道を胸を張って歩いた。何も手に入らなかった。何も積み重ならなかった。暗に軽蔑し合うだけのつまらない大人になったような気がしていた。

 

 恵比寿で一番淫猥な話題の酒席を打って、窓から若手社会人の仮面を投げ捨てた。どいつもこいつもくだらない人生を歩んでいた。どうにもふざけた面持ちで、間抜けな燻りを後生大事に今夜に持ち越していた。アグー豚が燃えて、だらだらと脂を垂れ流した。互いの酒杯を回し飲みして、撮影を頼まれた店員は連射モードで十枚近く同じ写真を撮った。何もかも馬鹿みたいだと思った。嘘は全部脱いで鉄板で焼いて食ってしまった。後には糞ったれの中学生しか残らなかった。生きる意味なんていらねえよ。爆竹でも刺してやれ。馬鹿野郎。真実ばかりの時間を太陽が追いかけてきた。豚の脂でも燃やしてろ。タクシーに女と押し込まれた。襲えとLINEでスパムされた。俺はその画面を女に見せた。お前ら本当にいいやつだな、と女は言った。

2015/01/15 言葉断捨離意識序破急

真面目な話、やっと心臓動いてる意味解ってきた気がしてる。

ネットの音楽オタクが選んだ2014年の日本のアルバム ベスト50→1 - 音楽だいすきクラブ

 

@grassrainbowのMy Best ALBUM 2014(邦楽編) - Togetterまとめ

 

蓮沼執太フィル「ZERO CONCERTO」 - YouTube

 

 いや本当ありがとうございます。ご紹介ありがとうございます。

 音楽という世界、本当に掘れば掘るほど理想に近づいていけるので希望しか湧かないなあ。

 もう最近本当に、空き時間に読書か音楽を聴いたり歌ったりすることしかできなくなってきたのだ。

 実際、音楽ほど(自分の好みにはまれば)隙のない遊びもない。一秒だって退屈する暇が無いわけだからなあ。

 僅か数分の間に凝縮されたあまりにも多くの言語と感覚。末広がりに放出されていく音を一筋に収斂させていくのは一体なんだろう、ハーモニーという言葉も、意思という言葉もその現象の両極でしかない。共同幻想と斬って捨てるにはあまりにも濃く、確かな質感を持った息吹。

 音楽も結局は生活音や喧噪の一部に過ぎないのかも知れない。好きな街、嫌いな街があるように、勝手にそこに立ってわが物にしたような気になっているだけなのかも知れない。表現、表現、表現。安直に用いられる『祈り』なんて言葉の軽さには耐えられず、率先して自らを投げうち、明らかに個の範囲では理解を超える何かに、それでも個をもってコミットしていき、その感覚が何なのかを確かめずにはいられないわれら。

 

 さんざん色々な場所で踊って歌って、ステップを踏んでたら漠然と「あー、心臓が止まってたら体でビート刻めないな」というしょうもないことに気付いて、こんないい音山ほど出てくるならまだセッション用にこのくそったれな肉体も取っといてやってもいいな、と最近ちゃんと思い始めた。何年音楽聴いているんだよ。今更だよ。まあそれが大人になるということであればまあそれもよし。

 

 っでね、もう好きな人はご存知なんだけど、自分の中でとてもとても評価の高い音楽は本当に言語化できないというか、あっ太刀打ちできないです……とばかりに言葉が毛穴から飛び出して行ってしまい、最近はなかなか、それはもうなかなか言葉足らずな日々だ。

 これはもうあれなのか、デトックス的な何かなのか。これだけ情報を過剰に摂取する日々を送っていても、人生には「言葉にする必要のない言葉」があるということに気付く。意外と忘れるんだ、これが。忌み嫌うものは、実際のところ、自分との相性が悪いだけか、すでにそれ自体が死につつあるものかのどちらかで、結局自分の人生とは関わらずに外れていくものだったんだ。

 

 だからというわけではないけど、頭の中に渦巻く思考もだいぶ整理が始まった気がしていて、これは捗る捗るといった具合。そして勉強が特に捗っている。なるほど、言葉を捨てて生きているようで、本当に必要なものだけ静かに内に積み重ねるための強制断捨離マシーン。表現よ。そして空っぽになった頭には入れたかったものを入れよう。壺に大きな石を先に入れずに小石や砂を先に入れると取り返しがつかないという。でも別に取れるのでまた入れ直そう。

 ロジカルとそうでない領域の行き来はまだ続く。行き来を繰り返して橋を架け続けて、輪郭をつかむ。そう、ウィトゲンシュタインがいつかつかめるだろうといったそれを。天蓋のへりを。それまでに死ぬかもしれないが、行く価値はあるのだ。ぬう。ぬう。

2015/01/14 Elegy for a dead world

もはや創作なのか消費なのか。


インディーズゲームの小部屋:Room#361「Elegy For A Dead World」 - 4Gamer.net

 

 まさかの背景に沿って直接ストーリーを書き込む「ゲーム」というわけで、そもそも全篇好き勝手に書けるのはそれはもうただの創作なんじゃないかと思いつつ、物語を書くのがゲームになるっていうんならやってみようじゃねえかということでやってみた。

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 まあー感触としてはゲームではないですよね。これね。

 だってまずインタラクティブ性がないもんね。書き込んだことによって何かがフィードバックされるわけじゃないし。ワークショップ経由で他のプレイヤーに読んでもらえるよーとか、それはもう単純に小説投稿サイトなんじゃないかという話なんですけどね。

 アイデアは好きだけどね。ってか個人的にはどんどん新しいステージを用意してほしいけどね。これが例えば不特定多数のプレイヤーによって作られるリレー型小説!みたいな体であったらゲームと呼びうると思うけど。MO形式で、4人とかで執筆をリレーして、みたいな。(まあ書き上げたものがどこで評価を受けるかっていう報酬の問題があるんだけど)

 

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 ただ、小説を書くにあたってのアシストツールとしては結構よくできていて、同じステージでも戯曲モードとか英文法練習モードとか、さまざまなテーマが用意されているので、これから何かを書いてみたい人とか、書き方を練習したい人にとってはありがたいと思う。英語だけどね。1・2時間ぐらいでさくさくっと書けるようなボリュームだし。

 とりあえずオーソドックスな「Byron星の時代」という設定で一篇書き上げたので掲載。基本的に最初の一行だけがゲームによるリードで、そこも改変して書き進めてる。色々文法が間違っているかもしれないが、もしわかる人は教えてくれるとありがたい。

 

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Arh'du - the melted civilization

Arh'du (アル・ドゥ):溶けた文明』

 

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 五億年前、この星は『アル・ドゥ』と呼ばれる種族の故郷だった。

 アル・ドゥはこの星系で最も文明の進んだ種族だった。彼らは成功者であり、侵略者であり、そして絶対的な支配者だった。だが今となっては、彼らは数々の奇妙ながらくたを遺し、遠い神話と成り果てている。

 

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 彼らは支配下の星を『Gim'a』――今では『the Jade(翡翠)』と呼ぶ――という金属製の素材で覆いつくし、そこから数々のテクノロジーや兵器、建築物、そして種そのものを作り出した。

 

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 他の惑星は彼らの手に落ち、次々に翡翠の実験場へと造り替えられた。彼らの侵攻に反抗できるものは誰一人いなかった。なぜって?それは星そのものが相手だったから。

 アル・ドゥが幾千もの『翡翠を星に降らせ、『翡翠』がその土壌に触れると、『翡翠』はその星に刻まれた記憶を抽出し、その星に住む種族や社会を――アル・ドゥの高い知識と技能を上書きしたうえで――丸ごと複製する。誰も複製された者が誰か見分けることはできない。というよりも、誰もそんなことを考えもしない。彼らは『翡翠』という名の“恵みの雨”によって我々は進歩したのだ、と喜ぶばかりだった。

 

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 千年もの間、アル・ドゥの“帝国”は栄華を誇った。

 『翡翠』は銀河中の知識と歴史を記録し、アル・ドゥはそれを星々を統治するのに用いた。それぞれの星には独自の種族と社会があったけれど、彼らの進化――最も根源的な「意志」そのもの――はアル・ドゥの手の中にあった。

 

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 高層建築はアル・ドゥ支配下の文明に共通した特徴だ。彼らは『翡翠』の生成工場を建て、それをオベリスクという、地上で最も高い塔から噴霧させる。オベリスクはそれぞれの社会における宗教的なモニュメント(教会のようなものだ)も兼ねている。

 宗教のバリエーションというのは当然ながら膨大にあった。だがそのすべての存在意義は、究極的にはたった一つの教条に集約された。

 ――「繁栄を讃えよ」。まあ、誰にも反対なんてされないわよね。もちろんそれが続いている間は、だけど。

 

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 アル・ドゥによる統治に不可欠なのがこの『石笛』だった。

 『翡翠』の砂がこの『石笛』の穴の中を通り抜けるときに、音が鳴る。とても大きくて耳障りだけど、どこか音楽のように聴こえなくもない。ちょうど誰かが巨大でボロボロのパイプオルガンで聖歌を奏でようとしているような感じ。その音で、アル・ドゥは星の状態を把握していた。

 

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 子供たちは歌い、大人たちは詩を書いた。

 戦争、弾圧、虐殺……数多くの破滅が訪れても、諦めるものはいなかった。それどころか立ち止まろうとするものすらいなかった。進化し続けることこそが唯一にして絶対の答えだということを、彼らはあらかじめ知っていたんだ。

 そして彼らはそれを疑わなかった。だから誰も悲しまなかった。彼らにとって、目に入るものはすべて、次なる進歩への光だった。

 彼らは常に幸せだったのよ。

 

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 その一方で、町の目立たない場所や個室の一角には、時折彼らの宗教的シンボルを冒涜するグロテスクな絵が描かれることがあった。

 アル・ドゥに支配されたものたちは決してアル・ドゥに立ち向かおうとはしなかったし、『翡翠』の力を疑うこともなかった。もちろん互いに殺し合うこともあったけど、オベリスクを攻撃することはついぞなかった。無意識のうちに自分たちが『翡翠』の子だとわかっていたのね。

 でも……だとしたら、何故こんな絵が残っているの……?

 

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 しかし、余りにも繁栄の限りを尽くしたもののご多分に漏れず、数千年後に全ての終わりが来た。

 

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 文明は堕ちた。大地の底が抜けたのよ。

 ある時、突然あらゆる『翡翠』が粉状に溶けだした。

 地面が、建物が、そして人々が……『翡翠』を内包するあらゆるものが溶け、風に吹かれて消えた。

 “本物の”大地でできたものは地上に残ったけれど、

 生命は……どこにも残らなかった。

 

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 大地は新たな生命を生み出すのを止めてしまった。

 星には、ただ風に吹かれる『翡翠』と植物だけが、生命の存在意義を忘れたかのようにそこにあるだけだった。

 それはとても静かで、平和な世界だった。

 

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 そして何千年もの時が経って、原始的な建物がこの星に建てられた。

 誰のかって?そうね……

 

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 “彼ら”は学んだことの全てを活かして、決して間違った進化をしないよう試みた。

 “彼ら”は常に風に吹く『翡翠』の音を聴き、“祖先たち”の失敗を思い出した。

 “彼ら”は絶対にそうした失敗を繰り返さなかった。

 

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 無限と喪われた生命たちは、アル・ドゥ――私たちの文明の再起のために役立てられた。

 

 私たちには、

 失敗も、

 悲劇も、

 後悔もない。

 

 ためらう気持ちも、ない。

 

 でも……それでも、彼らの死を悼まずにいられないのは、何故?

2015/01/13 「くだらない」という言葉すら相対的でして

論理的に保証されたラグジュアリー。


星野 源 - くだらないの中に 【MUSIC VIDEO & 特典DVD予告編】 - YouTube

 年始にドコドコッと、いわゆるハイソサエティな人々との接点があり、色々とお話ししているが、圧倒的過ぎる文化資本の圧力に頭をくらくらさせられている。いやもう本当に外部記憶装置のストックが無尽蔵で、話せば話すほどに自分は論理的な人間などではなく、感性で生きている人間なんじゃないかと思わされる。

 いや実際にそうなんだろうけど……。

 しかし、特に芸術や感性についての話をしていたのもあって、んんー?物事を考えるのにそんなに出典や論理的強度の保証って必要なのー?とどこかで思ってしまうのも事実で(古典マジ大事、それは大いにわかっているし、今年は基礎を押さえなければならないと本当に思っているけれど)、割と抱えてる悩み自体はあんまり変わらないところから察するに、文化的美食家はやはり「快」のバリエーションが豊富で、それを認識するだけの豊かなボキャブラリーもあれど、違いは結局「食べる時に人より細かく噛み砕いて食べられる」ぐらいなのかなぁと考えたりもした。

 でも観える世界の解像度が高ければ、それだけ選択肢も増えるし、行動のインパクトも乗数的に上がっていくのだから、やっぱり文化資本を積み上げることは人生の向上を考えた時に欠かすことのできないものなんだけどね。

  それでも、想像力のジャンプ抜きに、整合性を確かめるようにそろりそろりと人の心を語ることなどできまいよ。そんな風に意地を出してしまう。……はい、その意地を使って勉強しましょうね……(インプットしたものをすぐ結晶化できる技術とか)

 そしてそんな人々にも通じる星野源。何故だ。彼の掬う上澄みの純度の高さを思い知る。ヒズ業イズディープ。

 

 自由は人の手に余るエネルギーだから


仏紙、今週号でも預言者風刺画 過激派刺激も、厳戒続く - 47NEWS(よんななニュース)

 フランスは、言うまでもなく哲学と思想の国だ。

 パリの魅力を置いても心が常に引き寄せられる場所なだけに、どうにも気になって今回のテロ事件について様々な記事を読んだ。

 

一角獣ニ乗リ、月ノ揺籠ニ眠ル。2 エマニュエル・トッドさんの読売新聞のインタビュー

 ・だがフランスの社会構造を理性的に直視すべきで、なぜ北アフリカからの移民の2世、3世の多くが社会に絶望しているのかを考えるべきだ。彼らが過激化している。

 ・背景は長期に及ぶ経済の低迷で、移民の子供たちに職がないことであり、日常的に差別もされていること。そして、フランスの「文化人」ですらが、移民の文化を「悪」とする空気まである。

 

パリに住む日本人が感じた、新聞社襲撃テロのこと|すっぽんぽんパリ|中村綾花|cakes(ケイクス)

今もまだ日本滞在中の私は、この事件でパリは騒然とし、恐怖におののいているのだとばかり想像していました。でも、怯えるどころかデモに参加して意思表明をする人たちが多くいたという事実に驚いたのです。

 

フランスの新聞社 シャルリー・エブド襲撃事件について - alternativeway

 

「ペンにはペンで立ち向かえばいいではないか」
私にそういった人がいる。それが誰にでもできることではなく、
そういう言い方がまた階級や、生粋のフランス人と
そうではない人たちの立場の差を感じさせてしまうのでは
と私は思ってしまうのだけど。あなたにはできるかもしれない。
でも私達はそもそもそんな世界に行くことすらできなかった、
そう思う人たちはいるだろう。けれども誰しもに共通するのは
「だからといって何も殺すことはない」まさに本当にそう思う。

 

日本人の多くはテロっていうものを理解してない

この「主体において拒絶」ってのは、要するに、戦争だ。暴力だ。あいてはルールの違う共同体(これは国籍や住居とは無関係)の住民であり、こっちの法に従う義理はないんだから、「あなたは法を犯したから悪かったですよね?」っていうのは通用しないんだ。善悪とは全く関係ない。「俺たちに損害を与えたからお前らを暴力で滅ぼす」っていうだけのことなんだ。

 

シャルリー・エブド事件後の行進で、私が見た子どもたちの姿 | ゆりくれ** | タレント・レズビアンライフサポーター牧村朝子(まきむぅ)オフィシャルサイト

フランスでは人種や出自に関係なく、フランス国籍を持っている者はみな平等にフランス人とされます。またフランス国籍を持たない、たとえば私のような在仏日本人も、フランス国内に住めば「フランス社会の一員」とされ、フランスの法律をもって差別や暴力から守られます。

ですが中には「いつまでも移民扱いされている」「“ちゃんとしたフランス人”として扱われていない」と感じる人もいます。そして、そういう親の体験を聞かされながら育った、フランス国外にルーツを持つ子どもたちもまた、強い被差別意識を持つ傾向にあります。

特にシャルリー・エブド事件後、そういった子どもたちは、新聞やテレビや学校で教わる内容全てを「マジョリティが自分の都合で言っていることに過ぎない」として切り捨ててしまうのだそうです。では何を信じるのかというと、facebookなんだとか。そうやって耳をふさいでしまう子どもたちに、何をどう話せばいいのか、先生たちは頭を抱えているようです。

 

 暴力による抑圧に対して掲げられる『自由』と、実際に人々に幸福をもたらす機能する『自由』とは、大きく異なるものなのだと思う。

 前者は単に「かくある抑圧からの解放」を示す反動に過ぎなく、それは容易に「もう一つの暴力」になり得る、ただの盛り上がるエネルギーだが、後者、つまり本来的な意味での民主主義とは、個人に自己批判性を求める社会のあり方だ。それは個人に「ものを想う」という痛みを背負う覚悟を求める社会であり、それによって容易に生じる衝突に対し、不断の交渉と対話を求める社会だ。

 シャルリー亡き後のシャルリー・エブドの風刺は、そこに込められた信条を勘案しても、手段としては紛れもない悪手だと思う。ムハンマドを出して泣かせるというのは、テロの責任を全イスラム世界に投げつけるもので、市民の熱狂をテロリズムを生み出した・もしくは誘引した構造に対する疑問へ向けさせるものではなく、既存の差別問題の根をさらに深め、差別者と被差別者の溝を深める表現であり、風刺とは視点を俯瞰させることで受け手に自ら批評することを求める表現であるから、表現の文法的にも誤りであるように感じる。

 とはいえ、風刺という表現は表現者自身の当事者性があっては成立しない(主体が含まれないということが重要)ものでもあり、結局この場合シャルリー・エブドがすべきだった“正しい”風刺表現とはなんだったのかということを考え出すのが難しいのも事実だ。実体無き批評者は、当事者になった途端に主体の不在を公に曝け出し、結局は特定のサイドへの攻撃以外の目的を持たないことを明らかにしてしまう。スポットライトの下に映し出されるものが何も無いと知れた時、交渉の可能性は消え去り、言葉無き暴力の応酬が始まるのは道理だ。

 結局のところ、シャルリー・エブドは「風刺とは何か?」そして「暴力は必要だったのか?」と、当事者として立ち、疑問を投げかけるべきだったのではないだろうか。

 

 今回の行動によって、対話の窓が閉じられてしまったように思えてならない。誇り高きフランス人の国民性は好きだけど、それが悪い意味で保守的な方向に転がってしまわないよう、この表現に対するカウンターが適切に行われることを期待して止まない。 

2014/12/31 音速スタッフロール

言葉の届かない場所にばかりいた。

 2014年。実際毎週何かをしていた。

 もういい歳にはなっちまいながらも、「人生」が手元に来てまだ2・3年しか経っていないので、やっと自分の使いこなし方がわかってきていろいろやってみた、というのが今年だったと思う。いろいろやってみた、途端にあらゆることが上向き始めた面白い年だった。今年きてるわー、を様々な局面で思った。

 別に就職したところで何かが変わったわけではあまりなかった。収入が増えたのは小さいことではないけど、二十代になったら時間がないのは何をしてても同じだった。満員電車に肩を押し込むように、圧倒的質量で押し寄せ流れていく現在に自分をいかにねじこんでいくかという作業に変わりはなかったし、ねじこんでいけるだけの自分が手元にストックできてきていた時点で、十分にポジティブであることを受け入れていける条件は整っていた。

 そんな中でもずっと、これまで通り「過ぎ去ってしまうもの」「顧みられないもの」をいかに拾って形にするかは考え続けた。過去のプレイバックではなく、未来を迎え入れることが、本当は何を記述すべきなのかを見極めるに当たって重要だと気付いた。

 あるようでないものが好きだ。

 もっさりと存在していて、そのくせ手を入れるといとも簡単に崩れ、なくなってしまうようなもの。それは急いで消費してしまってもいいし、逆にじっくりとその味わいを引き出そうと試みてもいい。いずれにしても、リアルに関係した途端に実体を喪って、印象だけを残してさっと過去へと流れていってしまう。対応が正しかったか否かを問う間もない。一切れのケーキのような、そういうものが好きだ。

 そういうものを作るには、言葉だけでは全く足りなくて、もっと人間の多言語性――身体で発信できるメッセージ、ハイコンテクスト文化の中で行われる意味のマニューバ、感覚と自我の関係、定義の意義、それらについての理解が不可欠だということが分かったし、それによって着地すべき理想もどんどんと姿を変えていった。

 まだそこへ着地することはできていないし、その過程を表すだけの力量もない。生きることを保留したくなる時もまだまだあるし、焦りと迷いとはいい加減馴れ合い始めてきたところだ。

 人の人生を十年ごとに区切るとして、個別の自分が命をリレーしていく。十代生き残って、前半乗り越えて、今楽させてもらって、仕込んだものをまた次に渡していく。今ここに存在していること、何かができていなくても、それについて考え続けること、改善すること、着手すること。ミリ単位で、生活の範囲で修正をかけて、大鉈を振るう筋力がなくても、確実に触れ合った人を暖めていくこと。

 焦れはする。「まだ元を取っていない」という叫び。それも長所と受け入れられる余裕を少しずつ充填している。どのような形式で、どのようなタイミングでそのエネルギーを適切に流し込んでいけるか、まだ模索は続いていて、悲しいけれども、人よりも長く踏ん張り続けて鍛えられた脚で、その気持ちも踏みしめて進みたい。

 

 リアルな出来事でいうと、一番大きかったのはHESOMOGEこと川口忠彦さんの個展でギャラリートークをさせて頂いたことだろう。


第3回個展 終了いたしました : H E S O M O G E .com

 二十代になってから始めた趣味も、しっかり自分事に紐付けて咀嚼を続けたときに、きちんとそれを好きな人に届く表現が生まれるんだなということを川口さんとのご縁に教えて頂いたと思う。

 あのヴィーナス&ブレイブスの監督さんというだけであらゆる意味で自分にとっては神のような存在だった方と、親しくお付き合いさせて頂いて、美というものについて語り合い、検討することができた。そこからさらに素晴らしい出会いも広がって、過去も未来も深まり、味わいが出てきた。

 重要なのは、そこにいるすべての人が勝負をかけている人だということで、異なる分野に立ちながらも、ある種の戦友として集ったということなのだ。また別々の戦場に戻っていくための酒場のような場。人はなんのためにあるのか、なんてそんな問いもすっ飛ばして、人はどの方向に行くべきかを見据えた人。言葉は停滞する。思考は入り組んでもたつく。それでもわれわれはわれわれである以前に進化し続ける種。理性はそれを観測し続けている。本能と付き合い、どこへどこまで行くのか。時代は確かに変わっており、それゆえの罠も、未完成のものも多い。だが強い意志でそれらを切り分けていければ、何もかも自分で決めることができるだろう。

 溺れたがりにも守られたがりにもさよならをして、未だ移り気ではありながらも、それゆえの軽いフットワークを武器に追う。やっぱり物語を生成する人なんだよな、自分。なので来年もこのペースとリズムで、頑張っていきます。

 皆様、今年はお世話になりました。

 来年もよろしくお願いいたします。

 

遊んですぐ寝た。

 そんな昨日のCDJは、遅めに出て早めに帰った。

 もうほとんど貼るだけ。


坂本真綾「Be mine!」Music Video - YouTube

 なんでロックフェスにいるんだ!?と思いつつ、良かったです実際。真綾さん、想像以上に動きまくる人だった。美しい声は心と体の姿勢から、というのが観ていてよくわかる。

 


きのこ帝国 - 東京 (MV) - YouTube

 本命。MCで言っていた通りかなり緊張気味だったようだけど、押し寄せる斬り付けるような音圧の中に一筋、布に刃を通すように透き通った佐藤さんの歌声が抜けていく。こんな時代にこんな「東京」を歌うバンドがいる、その事実に何かと感傷的になってしまうなあ。

 


TM NETWORK / Get Wild 2014(TM NETWORK 30th ...

 やってくれました小室さん。ソロ、エレクトロ、マエストロってな具合でフロアを上げてから爆発→GET WILD。アレンジもロックフェスらしいギターサウンドを織り交ぜてきて、たまらない。まだ何もかも素直だった頃の音楽がまた鳴った。

 


大森靖子「きゅるきゅる」Music Clip [HD] - YouTube

 ねごとが始まる前に駆け込みて観た大森靖子

 割と真っ当なバンドサウンドを呪詛のグラインダーにかける危ないライブ。全方位にカウンター仕掛けると壊れるしかないというパンクの極北みたいな、なんか、なんだ、とりあえず大丈夫なんだろうか……?ダメだな……でもいてくれないと困る……ロックフェスだもの……

 


ねごと ループ (Live) - YouTube

 この「女子」との絶妙な距離感を観てくれー!

 そしてグルーヴ感を味わってくれー。

 日本のロックが次の段階に来たことを感じさせてくれる、不思議なまでに調和の取れたアクトだった。